メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

5章:カルタ・コラッロ - 11 -

 眼を瞠るティカを見て、シルヴィーは沈黙した。けれど、変わらぬ視線に促されて、再び口を開く。

「……実の父だ。表向きは優しい夫や父を演じていたが、家では酷い暴君だった。特に母に対する虐待は酷かった」

「え……」

「父にとって母は体のいい召使。仕事上の不満をぶつけても、恥じぬ相手くらいにしか思っていなかった」

 絶句――言葉が見つからない。
 孤児のティカにしてみれば、家族は御伽話も同然。温かくて、慈しみに満ちた別世界なのに。

「母は毅然とした人で、泣き言など決して漏らさなかった。俺の愛情は、自然と片親へ傾いたよ」

 薄い蒼氷色アイス・ブルーの双眸に、昏い光がよぎった。遠い日を覗くように、視線は虚空を見る。

「僕と同じ年頃って、シルヴィーが十五歳の時?」

 沈黙を割る問いかけに、彼は視線をティカに戻した。

「十四歳だ。母に暴力を働く場面を見て、あの男を斬った。残念なことに、死ななかったが……その後すぐ、ロアノス海軍兵学校に入れられたんだ」

「そこでキャプテンに会ったの?」

「そうだ。しかも同室だった。アイツの韜晦とうかいぶりときたら……豪商のすねかじりと見ていたのに、まさか王族とは思わなかった」

 思わず、笑みが浮かんだ。流石の彼も驚いたに違いない。その時の様子を見てみたかったものだ。

「十六歳になると、自分の意志で士官学校に進んだ。配給を母宛てに送りたかったからな。あの家を出て、自由になって欲しかったんだが……俺の卒業を待たずに逝ってしまった」

「え……」

 心臓が止まりかけた。呼吸すら止めて凝視していると、シルヴィーはふと寂しげな笑みを浮かべた。

「病死だ。身体の弱い人だったから……だが俺は、母の寿命を縮めたのは、間違いなくあの男が原因だと思っている」

「だからガロ海軍士官学校を出たのに、海賊になったの?」

 深い絶望が、彼を海へ駆り立てたのだろうか。ティカは真面目に尋ねたが、シルヴィーはなぜか小さく吹き出した。

「そうだな。士官学校の同期にはいい奴もいたけど、海軍に入れば、あの男の訓令を仰ぐことになる。腐ってもロアノス艦隊の提督だからな。あいつの犬になるくらいなら、死んだ方がマシだ。だからヴィーの船に誘われた時、渡りに船で飛び乗ったんだ」

「キャプテンから誘ったんだ」

「あぁ。母がいないなら、家のことなんてどうでも良かったしな。今ではもう、この船を家だと思っている。船員は家族だ」

「うん……」

 優しい笑みを浮かべる航海士に、ティカも微笑で応えた。
 ここを家だと言う 彼の気持ちはよく判る。ティカもヴィヴィアンやシルヴィーに出会い、オリバーに、仲間に出会い……かけがえのない兄弟を得たから。

「血の繋がりなんて、温い麦酒ビールより味気ない。愛は欺瞞に満ちている。特に男女間においては虚妄でしかない」

 不意にシルヴィーは冷めた眼差しで呟いた。反論など寄せ付けない、凛とした空気すら感じる。
 本当の家族について語れないティカに、彼に意見することは難しい。でも……

「僕は、サーシャを愛していました」

 ヴィヴィアンに寄せる鮮烈な想いとは、少し違うけれど……大切な、淡い初恋の君だ。
 姉であり、母であり、初めての友達であり、愛を教えてくれたひと。出会ってからずっと、ティカの心を傍で守ってくれた。
 あの日々に偽りはない。彼女と重ねた日々には真実しかない。
 男女の愛にも真実はある。
 それを、どう説明すればいいか判らない。
 歯痒げに顔を歪ませるティカを見て、シルヴィーはふと瞳を和ませた。手を伸ばして、あちこち撥ねたティカの黒髪を撫でる。

「……そうだな。ティカなら絶対に、弱者を傷つけたりしないだろう……弱い者をいたぶる者、女子供を傷つける奴はこの世で最も醜悪だ」

 後半を、殆ど吐き捨てるように言い切った。

澄明ちょうめいで在りたい。けど、血の繋がりなんて……そう思っていても、あいつと同じ血が流れている我が身に虫唾が走る時がある」

 瞳の奥に一筋の怒りが灯る。彼の心に潜む深淵は、そう簡単に埋められやしないのだろう……

「シルヴィーは優しいから大丈夫。無暗に人を傷つけたりしない」

 いつの日か、彼の傷が全て癒えればいい。
 青い瞳に、哀しみと慈しみをい混ぜた色を浮かべて、シルヴィーは静かにティカを見つめた。

「俺の中の綺麗なものは、母の死と共に死んだと思っていた。だけど、魔法にかけられて、多少は取り戻せた気がする。憎悪に変わってしまった母との記憶も、少しは……」

 言葉を途中で切ると、シルヴィーはティカを引き寄せ、額と額を突き合わせた。

「シルヴィー……」

 触れ合った額の温もりに、哀しさが込み上げた。
 十四歳の彼に強いられた、苦慮の重さ……どうして、そんなに辛い運命を、彼は与えられてしまったのだろう。