メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
2章:エステリ・ヴァラモン海賊団 - 8 -
王都パージ・トゥランを出港してから二十五日。
天候に恵まれたヘルジャッジ号は、順調に無限幻海に向けて突き進んでいた。もう二、三日もすれば、噂に名高い幻の海を拝める――航海の終着に、船員達は胸を躍らせていた。
ところが、二十七日目。濃密な靄がたちこめ、一寸先も見えなくなった。ヘルジャッジ号は警戒態勢で減速して進んだ。
翌々日、二十九日目にして煙霞 は晴れたが――
「船尾東! ジョー・スパーナだっ!!」
檣楼 から水夫が大声で叫んだ。甲板は騒然となり、水夫達は一斉に船縁 に張りついた。真剣な顔で海の彼方を見やる。
シルヴィーとヴィヴィアンも既に甲板に姿を見せている。休憩していたティカも、オリバーと一緒に主甲板に飛び出した。
「五十、いや百はいるぞ!」
ついに水平線の彼方に、ジョー・スパーナ率いる海賊団隊の船影を視認した。もはや、望遠鏡を使わずとも肉眼で確認できる。敵は総帆して、ヘルジャッジ号に迫る勢いだ。
「あいつら、砲門開いてますぜ!」
甲板は殺気立ったが、暗雲立ち込める空を見上げて、ヴィヴィアンは戦闘準備に「待った」をかけた。信心深い船乗り達も、たった今晴れていたはずの不気味な空を見上げて、口々に祈りの言葉を囁いている。
「どう思う、シルヴィー?」
航海長は携帯観測具の蓋を閉じると、厳しい顔で首を振った。
「呪われてるとしか思えないな……靄が局部的に晴れたせいで、照りつける太陽熱が海水に届いている。この辺り一面に、強烈な上昇気流が発生しているんだ」
「湿った空気だ。スコールになるね」
「急速に気圧が下がっていく。スコールがきたと思ったら、あっと言う間に嵐に変わるぞ。この間と同じだ。あいつらの相手をしている暇なんてない」
シルヴィーの厳しい意見を聞くなり、ヴィヴィアンは甲板に向かって叫んだ。
「全速力で逃げ切るぞ! 総員配置につけ!」
「アイアイ、キャプテンッ!」
甲板部員達は声を揃えて吠えた。
「機関を停止しろ! 風を生かせ!」
ヴィヴィアンが続けて指示を飛ばすと、重ねるようにしてシルヴィーが声を張り上げる。
「風向きが変わる。時計と逆回りの強風に備えろ! 可航半円に突き進め、向かい風を受けて進むんだ!!」
「アイ、サーッ!!」
秒単位で空は暗く濁っていく。シルヴィーの言う通り、やがて霧雨が降り注ぎ、瞬く間に牙を剥いた。礫 のような雨粒が容赦なく斜めから叩きつけてくる。嵐の始まりだ。
「エーテル補給した傍からこれだ! ヴィー、後悔はないか!? “鍵”を渡すなら、今からでも遅くないぞ!」
シルヴィーは主帆柱 の下で索具を締めながら、腹立たしそうに叫んだ。ヴィヴィアンは、断る! と笑い飛ばした。自信たっぷりに空を指差して、甲板に向かって声を張りあげた。
「勇敢なる諸君! 神風だ! 天が俺達に味方しているぞ! ほら見ろ、向こうは足止めくらってる。引き離すチャンスだ!!」
頼もしいキャプテンの言葉に、甲板部員達は笑いで応えた。
「神風ときたもんだ!」
「違いねぇ! 距離を稼いでやろうや!!」
全員が忠実に自分の仕事に取り掛かった。帆柱 を登る水夫達は足場綱 を頼りに、風を孕んで暴れる帆を帆桁 に巻き付けて確実に留める。下で動索を握る水夫達も、エェイッ! オォッ! と声を合わせて、限られた帆だけを残し、次々と縮帆 していく。
サディールやオリバー達は、いざという時のために船首から船尾まで命綱を張り渡している。ティカも手伝おうと飛び出したら、シルヴィーに見咎められた。
「邪魔だ! 中に入ってろ!!」
「でも!」
オリバーだって嵐の中で作業をしている。ティカも何か手伝いたかった。そう思った傍から、足を滑らせて急斜面の甲板を転がった。
次の瞬間、巨大な風浪 がヘルジャッジ号の脇に立ちはだかる。荒波は船縁を乗り越えて、ティカの真上から、甲板に向かって襲い掛かった。
「ティカッ!!」
ヴィヴィアンは本気で叫んだ。波が引いて、索具に掴まるティカが姿を現すと、傾く甲板の上を巧みに走った。攫うようにティカを抱き上げ、そのまま船長室 に駆け込んだ。
「ティカ」
「キャプテン、僕も……っ」
ヴィヴィアンは真剣な眼差しでティカを見つめた後、眼元を和ませた。木屑にまみれたティカの頭をくしゃっと撫でる。
「いい子だから、じっとしてな」
「キャプテンッ!」
ティカが立ち上った時にはもう、ヴィヴィアンは扉の外へ飛び出していた。慌てて追い駆けたが、扉の前で思い止まった。
悔しいが、シルヴィーに指摘された通りだ。今ティカが出て行っても、足手まといになってしまう……ここでじっとしているしかない。
嵐は酷くなる一方だった。
船長室の窓硝子を雨粒が激しく叩いている。空が割れるような雷鳴。あの日と同じ、鳴りやまないドラムロールと、叩きつけるようなシンバルの音――
甲板にいる皆が心配だ。ティカは少し足を滑らせただけで、玩具みたいに甲板の上を転がった。ヴィヴィアン達はあんな危険地帯を動き回って、本当に大丈夫なのだろうか。
「海を治める女神アトラス様、どうか、ヘルジャッジ号をお守りください、どうか……皆を無事に帰してください。皆をお守りください、どうか……」
殆ど自分に言い聞かせるように、ティカは床に蹲 り、両手を組んで天に祈り続けた。
+
一刻も経つと、外の様子は不思議な変化を見せた。
海は大荒れだが、船の揺れは格段に緩やかになったのだ。やがてヴィヴィアンが船長室に戻ってくると、ティカは転がるようにして駆け寄った。
「キャプテンッ!」
びしょ濡れのヴィヴィアンにしがみつくと、宥めるように頭を撫でられた。
「ただいま、ティカ」
「良かったぁ……っ」
「着替えなかったの?」
同じくびしょ濡れのティカを見て、ヴィヴィアンは顔をしかめた。恐怖が去ると、途端に身体は寒さを思い出して震え始めた。身体のあちこちが強張っている。
ヴィヴィアンはティカの頭をタオルで拭きながら、風呂に入ろう、と呟いた。どうぞ、というつもりで道を空けたら、ティカも腕を掴まれてバスルームに引っ張りこまれた。
「面倒臭いから一緒に入ろう。広いから大丈夫だよ」
でも、と言い掛けたら問答無用で服を脱がされた。ヴィヴィアンは時々とても強引だ。自分も手際よく脱ぐと、涼しげなタイルの浴室にティカを押し込んだ。
巨躯の水夫達に交じっていると細身に見えるヴィヴィアンだが、こうして傍で裸を見ると、肩も腕も逞しい。割れた腹筋もティカとはまるで違う……
「髪を洗ってあげる」
ヴィヴァンはシャワーヘッドを持って、砂っぽいティカの髪を洗い流した。陶器のボトルから香しい液体を出して、頭をマッサージするようにかき回す。生まれて初めて味わう心地良さだった。
「わぁー……」
爽やかな檸檬と海の香り。ティカは恍惚の表情を浮かべて眼を閉じた。身体から力が抜けていくようだ。逞しい胸に倒れ込むと、ヴィヴィアンは笑いながら肩を支えてくれた。
「ほら、しっかり立て。眼と口は閉じていろよ」
ヴィヴィアンは仕上げに、髪にクリームを擦りこんでから洗い流した。更に温まった背中を、柔らかな麻布 でこする。
生まれ変わったようだ。髪も肌もいい香りがする。ティカは陶然としていたが、キャプテンに世話を焼かせていることに気がついて、慌てて姿勢を正した。
「キャプテン! 僕も洗います!」
ティカが威勢よく申し出ると、ヴィヴィアンは口端を上げた。
「今度ね」
そう言って、手際よく自分で洗う。ふと、腕に走る朱い筋に眼が留まった。
「キャプテン、血が……」
「大したことない。擦っただけだ」
しなやかな筋肉のついたヴィヴィアンの裸体を見て、ティカは何となく、腕を曲げて力こぶを作ってみた。次いでファイティング・ポーズを取る。
「……何?」
「僕もキャプテンみたいになりたい」
ヴィヴィアンは笑った。
「痩せっぽちめ。鍛える前に、食べて太りな。よし、上がっていいよ」
ティカは自分の細い腕を見下ろし……拳を握りしめると、必ず太ってみせる、と固く心に誓った。
天候に恵まれたヘルジャッジ号は、順調に無限幻海に向けて突き進んでいた。もう二、三日もすれば、噂に名高い幻の海を拝める――航海の終着に、船員達は胸を躍らせていた。
ところが、二十七日目。濃密な靄がたちこめ、一寸先も見えなくなった。ヘルジャッジ号は警戒態勢で減速して進んだ。
翌々日、二十九日目にして
「船尾東! ジョー・スパーナだっ!!」
シルヴィーとヴィヴィアンも既に甲板に姿を見せている。休憩していたティカも、オリバーと一緒に主甲板に飛び出した。
「五十、いや百はいるぞ!」
ついに水平線の彼方に、ジョー・スパーナ率いる海賊団隊の船影を視認した。もはや、望遠鏡を使わずとも肉眼で確認できる。敵は総帆して、ヘルジャッジ号に迫る勢いだ。
「あいつら、砲門開いてますぜ!」
甲板は殺気立ったが、暗雲立ち込める空を見上げて、ヴィヴィアンは戦闘準備に「待った」をかけた。信心深い船乗り達も、たった今晴れていたはずの不気味な空を見上げて、口々に祈りの言葉を囁いている。
「どう思う、シルヴィー?」
航海長は携帯観測具の蓋を閉じると、厳しい顔で首を振った。
「呪われてるとしか思えないな……靄が局部的に晴れたせいで、照りつける太陽熱が海水に届いている。この辺り一面に、強烈な上昇気流が発生しているんだ」
「湿った空気だ。スコールになるね」
「急速に気圧が下がっていく。スコールがきたと思ったら、あっと言う間に嵐に変わるぞ。この間と同じだ。あいつらの相手をしている暇なんてない」
シルヴィーの厳しい意見を聞くなり、ヴィヴィアンは甲板に向かって叫んだ。
「全速力で逃げ切るぞ! 総員配置につけ!」
「アイアイ、キャプテンッ!」
甲板部員達は声を揃えて吠えた。
「機関を停止しろ! 風を生かせ!」
ヴィヴィアンが続けて指示を飛ばすと、重ねるようにしてシルヴィーが声を張り上げる。
「風向きが変わる。時計と逆回りの強風に備えろ! 可航半円に突き進め、向かい風を受けて進むんだ!!」
「アイ、サーッ!!」
秒単位で空は暗く濁っていく。シルヴィーの言う通り、やがて霧雨が降り注ぎ、瞬く間に牙を剥いた。
「エーテル補給した傍からこれだ! ヴィー、後悔はないか!? “鍵”を渡すなら、今からでも遅くないぞ!」
シルヴィーは
「勇敢なる諸君! 神風だ! 天が俺達に味方しているぞ! ほら見ろ、向こうは足止めくらってる。引き離すチャンスだ!!」
頼もしいキャプテンの言葉に、甲板部員達は笑いで応えた。
「神風ときたもんだ!」
「違いねぇ! 距離を稼いでやろうや!!」
全員が忠実に自分の仕事に取り掛かった。
サディールやオリバー達は、いざという時のために船首から船尾まで命綱を張り渡している。ティカも手伝おうと飛び出したら、シルヴィーに見咎められた。
「邪魔だ! 中に入ってろ!!」
「でも!」
オリバーだって嵐の中で作業をしている。ティカも何か手伝いたかった。そう思った傍から、足を滑らせて急斜面の甲板を転がった。
次の瞬間、巨大な
「ティカッ!!」
ヴィヴィアンは本気で叫んだ。波が引いて、索具に掴まるティカが姿を現すと、傾く甲板の上を巧みに走った。攫うようにティカを抱き上げ、そのまま
「ティカ」
「キャプテン、僕も……っ」
ヴィヴィアンは真剣な眼差しでティカを見つめた後、眼元を和ませた。木屑にまみれたティカの頭をくしゃっと撫でる。
「いい子だから、じっとしてな」
「キャプテンッ!」
ティカが立ち上った時にはもう、ヴィヴィアンは扉の外へ飛び出していた。慌てて追い駆けたが、扉の前で思い止まった。
悔しいが、シルヴィーに指摘された通りだ。今ティカが出て行っても、足手まといになってしまう……ここでじっとしているしかない。
嵐は酷くなる一方だった。
船長室の窓硝子を雨粒が激しく叩いている。空が割れるような雷鳴。あの日と同じ、鳴りやまないドラムロールと、叩きつけるようなシンバルの音――
甲板にいる皆が心配だ。ティカは少し足を滑らせただけで、玩具みたいに甲板の上を転がった。ヴィヴィアン達はあんな危険地帯を動き回って、本当に大丈夫なのだろうか。
「海を治める女神アトラス様、どうか、ヘルジャッジ号をお守りください、どうか……皆を無事に帰してください。皆をお守りください、どうか……」
殆ど自分に言い聞かせるように、ティカは床に
+
一刻も経つと、外の様子は不思議な変化を見せた。
海は大荒れだが、船の揺れは格段に緩やかになったのだ。やがてヴィヴィアンが船長室に戻ってくると、ティカは転がるようにして駆け寄った。
「キャプテンッ!」
びしょ濡れのヴィヴィアンにしがみつくと、宥めるように頭を撫でられた。
「ただいま、ティカ」
「良かったぁ……っ」
「着替えなかったの?」
同じくびしょ濡れのティカを見て、ヴィヴィアンは顔をしかめた。恐怖が去ると、途端に身体は寒さを思い出して震え始めた。身体のあちこちが強張っている。
ヴィヴィアンはティカの頭をタオルで拭きながら、風呂に入ろう、と呟いた。どうぞ、というつもりで道を空けたら、ティカも腕を掴まれてバスルームに引っ張りこまれた。
「面倒臭いから一緒に入ろう。広いから大丈夫だよ」
でも、と言い掛けたら問答無用で服を脱がされた。ヴィヴィアンは時々とても強引だ。自分も手際よく脱ぐと、涼しげなタイルの浴室にティカを押し込んだ。
巨躯の水夫達に交じっていると細身に見えるヴィヴィアンだが、こうして傍で裸を見ると、肩も腕も逞しい。割れた腹筋もティカとはまるで違う……
「髪を洗ってあげる」
ヴィヴァンはシャワーヘッドを持って、砂っぽいティカの髪を洗い流した。陶器のボトルから香しい液体を出して、頭をマッサージするようにかき回す。生まれて初めて味わう心地良さだった。
「わぁー……」
爽やかな檸檬と海の香り。ティカは恍惚の表情を浮かべて眼を閉じた。身体から力が抜けていくようだ。逞しい胸に倒れ込むと、ヴィヴィアンは笑いながら肩を支えてくれた。
「ほら、しっかり立て。眼と口は閉じていろよ」
ヴィヴィアンは仕上げに、髪にクリームを擦りこんでから洗い流した。更に温まった背中を、柔らかな
生まれ変わったようだ。髪も肌もいい香りがする。ティカは陶然としていたが、キャプテンに世話を焼かせていることに気がついて、慌てて姿勢を正した。
「キャプテン! 僕も洗います!」
ティカが威勢よく申し出ると、ヴィヴィアンは口端を上げた。
「今度ね」
そう言って、手際よく自分で洗う。ふと、腕に走る朱い筋に眼が留まった。
「キャプテン、血が……」
「大したことない。擦っただけだ」
しなやかな筋肉のついたヴィヴィアンの裸体を見て、ティカは何となく、腕を曲げて力こぶを作ってみた。次いでファイティング・ポーズを取る。
「……何?」
「僕もキャプテンみたいになりたい」
ヴィヴィアンは笑った。
「痩せっぽちめ。鍛える前に、食べて太りな。よし、上がっていいよ」
ティカは自分の細い腕を見下ろし……拳を握りしめると、必ず太ってみせる、と固く心に誓った。