メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

2章:エステリ・ヴァラモン海賊団 - 6 -

 翌朝、ティカはヴィヴィアンに起こされ、跳ね起きた。しまった、一介の船乗りがキャプテンに起こしてもらうとはいい身分だ。

「お、お早うございます! キャプテン!!」

「お早う、ティカ」

 狼狽えるティカを見て、ヴィヴィアンは小さく笑った。寝癖のついたティカの髪を、くしゃっと撫でる。

「僕、当直っ」

「大丈夫、あと十五分あるよ。船乗りのいいところは、仕事場が近いことだ」

「僕、行きますね!」

 ティカは大急ぎで着替えると、大理石の洗面台で顔を洗った。濡れた顔を、着ているシャツで拭こうとしたら、顔にタオルを投げかけられた。

「ちゃんと拭きない」

「アイ」

 適当に拭いて部屋を飛び出そうとしたら、プラム食べる? と声をかけられた。悪魔の誘惑だ。ヴィヴィアンと扉を交互に見ると、彼は可笑しそうに噴き出した。

「そんなに悩まないでよ。食べるくらいの時間はあるでしょ。ほら」

 ヴィヴィアンは器用にナイフを使い、プラムを適当にカットした。そのうちの一切れをフォークにさして、ティカに差し出す。
 美味しそうなプラムに、ティカの眼は釘付けになった。瑞々しい香りに誘われて口を開くと、ヴィヴィアンはプラムを口に入れてくれた。

「美味しい?」

「アイ……」

 ティカは暫し至福を味わっていたが、我に返えると、今度こそ弾丸のように船長室キャプテンズデッキを飛び出した。あと五分で当直の時間だ。
 甲板に出た途端、心地いい朝の光に全身を包まれた。今日も晴天だ。透明度の高い海は、思わず飛び込みたくなるような青色に輝いている。
 主帆柱メイン・マストの下に、オリバーの姿を見つけて駆け寄ると、オリバーはさっと右手を上げて、掌をティカに向けた。

「?」

 意味が判らず首を傾げると、ティカも手を上げて、と言われた。さっと上げると、オリバーはすかさずパチンと掌を打ち鳴らした。

「今のは?」

「挨拶だよ」

「アイ」

「船長室はどうだった?」

「すごく綺麗だし、ハンモックは寝心地いいよ」

「キャプテンはティカに一眼惚れしたって噂があるけど、本当?」

 オリバーは楽しそうに眼を輝かせている。ティカは笑った。

「まさか、幸運なだけだよ。キャプテンの首から下げている羅針盤、僕が傍へ寄ったらたまたま動き出したから、いろいろと気に掛けてくれるんだ」

「ふぅん……」

 と、その時、
「野郎共、朝の甲板磨きだ。手ぇ空いてる奴は取り掛かれ!」

 サディールの大声が甲板に響き渡った。あちこちから、アイ、サー! と威勢の良い返事が聞こえてくる。
 帆柱マストや昇降口から水夫が集まってきて、それぞれ砥石を手に取り、甲板を研き始める。オリバーとティカも空いているスペースを研き始めた。

「ねぇ、無限幻海に着くのに、どれくらいかかるかな?」

「パージ・トゥランから無限幻海まで、最短でも一ヵ月はかかる。順調な航海だとしてね。風がやんだり、荒天に襲われたらもっとかかる」

 オリバーがそう言うと、近くにいた水夫も便乗してきた。

「俺ぁ、この船けっこう長く乗ってるが、無限幻海は初めての航海だよ。手前のリダ島までは寄ったことあるんだ。そこまでは南東風と海流に恵まれて、快速で進めるからな。ただ、その先は魔の海域で有名だぜ」

「魔の海域?」

「聞いた話じゃ、予測もつかない嵐に見舞われたり、コンパスも利かなくなるらしい……見た人間じゃないと判んねぇんだろうよ。海では、とても説明できないことが起こるもんさ」

「嵐が、くるのかな……?」

 ティカは不安を覚えた。

「こないことを祈るばかりだぜ」

 水夫はそう言って、天を仰いだ。周囲の水夫達までもが、一瞬手を休めて天を仰いだ。

「順風満帆であれ! 女神アトラス様、我等の航海に祝福を!」

 一人が空に向かってわめくと、あちこちから同じような祈りの言葉が上がった。オリバーも手を休めて空を仰ぐと、次いでティカを見た。

「概ね天候に恵まれると思うよ。少なくとも二十日くらいはね。でも、無限幻海が近付いてきたら、どうなるかは神のみぞ知る、だ。ティカも毎朝甲板に上がったら、航海の無事を祈るといいよ」

「――そうする。アトラス様、この航海に祝福を。ヘルジャッジ号をどうかお守りください!」

 不安そうにしているティカを見て、オリバーは慰めるように微笑んだ。

「どんな航海上手な船でも、海に出れば荒天に襲われる時はあるよ。でも、危険を乗り切る為の、最悪な状態での操船方法ってのがある。ヘルジャッジ号は何度も時化しけを乗り越えてきた実績もあるし、あんまり心配し過ぎない方がいいよ」

「うん……」

 ティカは曖昧に微笑んだ。嵐を怖いと思うのは、何も航海への恐怖ばかりではなかった。
 嵐は嫌いだ……サーシャの最後を思い出すから。