メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

2章:エステリ・ヴァラモン海賊団 - 4 -

 身体を思いきり動かしたあと、二人して甲板に転がって昼寝をした。
 気持ちよく眠っていたら、通りがかった兄弟に、顔に水をかけられた。汗水流して働いている人の傍で、呑気に寛いではいけない……
 夕暮れが濃くなると、水夫が舳先へさきに青い洋燈ランプを灯す。
 海上の夜空には驚くほどの星が瞬き、凪いだ海に三つ並んだ月が映りこみ、ゆらゆらとたゆたう。帆柱マストの上で一杯やりながら、バイオリンを奏でる水夫もいる。
 夕飯を済ませて甲板にあがったティカは、しばし風情のある夜の海に見惚れた。
「当直だよ」
 ぼうっとしていたら、オリバーに背中を叩かれた。これから四時間の、初めての当直任務である。
 少し緊張しているティカを振り向いて、オリバーは不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、キャプテンから、ティカに帆柱マスト昇降を徹底的に教えこめっていわれてるんだよね。百五十メートルの高所からも、平気で飛び降りれるように鍛えろっていわれたんだけど……なんで?」
「さぁ……」
 ティカも首を傾げた。
「どんな高い所に登るわけ? それとも突き落とされんの?」
 意地悪く笑うオリバーに、ティカは苦笑いで応えた。しかし、心当たりならある。
 無限海に浮かぶ幻の海――無限幻海。
 ジョー・スパーナから奪った……いや、取り返した“無限幻海の鍵”があれば、海は割れて真の滝が顕れる。ヴィヴィアンはそう話していた。そして、滝の落ちる先には“星明かりの島”が見えるとも。彼は、滝上から島へ降りることを想定して、高所の昇降にティカを慣れさせようとしているのかもしれない。
「僕、頑張るよ」
 張り切って告げると、オリバーは感心したように頷いた。
「やっぱり、ティカには素質があるよ」
「何の?」
「ヘルジャッジ号の船乗りとしてさ! キャプテン命令は、船の上じゃ神の一言にも等しいからね。どんな無茶をいわれても、実行する忠誠心と度胸が必要なんだよ」
「キャプテンは神様だと思う」
 きっぱり即答すると、オリバーは三角の耳をぴんと立て、にやりと笑った。
「おーぉ、もう信奉者だ」
「オリバーは違うの?」
「もちろん尊敬しているよ。金払いもいいし、清潔で頑丈な船、文句ない。この間のユーマリー海では死ぬかと思ったけど……」
「僕もジョー・スパーナを見てみたい」
 ティカは目を輝かせたが、オリバーは蒼褪めた様子で、額に手をやった。
「俺は二度と見たくない……ユーマリー海でやりあったら、連中、真っ赤な顔で追いかけてきてさ。おまけに進行方向にはスコールときたもんだ。進退窮まってキャプテンを仰いだら、総帆命令だぜ」
「それって、まずいの?」
「あったりまえだよ! 風が吹き荒れるなか、展帆てんぱんして突っこんでみろよ、いいように弄ばれちまう。なのにうちのキャプテンときたら、ジョー・スパーナは撒けるし、嵐で船は綺麗に洗えるし一石二鳥とかいってさ、意味不明だよ」
「そういえば他の水夫も、嵐のなか、総帆命令がでたっていってた……」
 ティカが思いだしたようにつけ加えると、オリバーは長い尾を忙しなく左右に揺し、何度も頷いた。
「あれは忘れられないよ……呪われた秘宝に手をだしたから、おぉー、女神アトラス様の鉄槌だーって皆びびりまくってた」
「あの嵐、すごかったもんねぇ。僕、あんなに酷い嵐、生まれて初めて見たよ」
「ティカはその時陸の上にいたんだろ? こっちは海のど真ん中だぜ!! 風があんまりにも激しく吹き荒れるから、甲板部員が二人、洗濯物みたいに吹き飛ばされかけたんだ」
「えーっ、大丈夫だったの!?」
 オリバーはもったいぶった間をおいて頷いた。
「エーテル防壁のおかげでね。衝撃をかなり減らしてくれるから、悪魔みたいな嵐も、小悪魔くらいにはなってくれる」
「そっかぁ……」
「といっても、甲板は急斜面だし、大波は船縁を越えて甲板で砕け散ってたけどね。防壁がなけりゃ、あっという間に木端微塵、俺たち全員、海の藻屑もくずになってたよ」
 遠い眼差しで虚空を見るオリバーに、ティカも苦笑いで応えた。
「よく無事にパージ・トゥランに辿り着けたね」
「全くだぜ」
「オリバーも、この間の嵐は“無限幻海の鍵”のせいだって思う?」
 オリバーは神妙な顔で頷いた。
わざわいの類は信じちゃいないけど、あの羅針盤に限っては、否定はできないね。今でも、あの嵐の夜を夢に見るんだ。自分がこんなに繊細だとは知らなかったよ」
「判るよ……僕も嵐の夜は怖いから」
 顔を曇らせるティカを見て、オリバーは空気を変えるように、さて、と明るい口調で続けた。
「帆柱に登ってみて。慣れないうちは、風上側からのぼるといいよ。風が吹いても索に身体を押しつけられるから、落ちる心配がちょっと減るんだ」
「なるほど」
 ティカはいわれた通り、風上側の横静索シュラウドを伝って一気に船尾側の帆柱を登った。甲板でオリバーが感心したように、早くなったなぁ、と褒めてくれる。
 檣楼トップから甲板を見下ろすと今度は降りろといわれ、ハリヤードに飛び移ってするするとおりた。オリバーは腕を組んで、小さなキャプテンのように満足そうに頷いている。
「よし、もっかい登ろう」
 二人して檣楼にあがると、オリバーは備えつけられた望遠鏡をティカに渡した。
「ヘルジャッジ号を襲うような海賊はあんまりいないけど、今は無限幻海を目指してるから、強い海賊がいっぱい集まってきてる。油断するな。敵船を最初に発見した者には、五万ルーヴの報奨金もでるんだぜ。しっかり見張れよ」
「うん!」
 ティカは張り切って頷いた。
「あ、そうだ……昨日いってた航海契約について、説明しておくよ」
 それはありがたい。ティカはオリバーの方に身体ごと向いて、姿勢を正した。
「大切なのは、班行動を共にすること。飯も当直も甲板作業も、何もかも班行動だ。それから、報酬と保障金についても知っておくべきだ。航海回数や役割に応じて、乗船、もしくは下船時に金をもらえる。戦闘に参加すると、臨時収入もあるよ」
「この船は、あんまり戦わないんでしょ?」
 オリバーは頷いた。
「こっちから襲撃はしないけど、向こうが襲ってきたら応戦するよ。で、金品分配は幹部乗員に特別の割増考慮があって、戦闘に立たない裏方、大工とかは〇・七五、取り分は少しさがる。その他乗組員の配給は平等。功労が認められれば特別報酬もでるよ」
「オリバーも闘うの?」
「うん。接近戦になったら襲撃部隊にも加わるよ。戦闘でもし怪我したら、特別保障金がでる。例えば片腕、もしくは片脚を失くしたら百万ルーヴもらえる」
「……そういえば、義足をつけた人を見たよ」
「うん。大抵の奴は保障金で機械義手を作ってもらうんだ。うちは船に腕のいい機工士と医者が乗ってるから安心していいよ」
 励ますように肩を叩かれたが、どちらかといえば不安を覚えた。金はもらえるし、技術者もいるから手足を失くしても一安心……とは思えない。
「帆柱の上での仕事は重労働だからね。水が飲みたけりゃ、いつでも降りて水甕みずがめから飲んでいいよ。当直で檣楼に登る時は、夜食と水瓶の持ちこみを許可されている」
「うん」
 今夜も当直に就く前に、ティカはオリバーと一緒に食堂に寄り、夜食を持ってきていた。
「ボートにラム酒隠してる奴もいるけど、見つかったら没収されるから。あと当直で酒飲んでるのバレると、処罰される。まぁティカは心配いらないか」
「お酒は飲まないよ」
「だよね……航海契約は航海毎に更新するんだ。ティカは知らなかったみたいだけど、別に不当な規約はないから安心していいよ。ヘルジャッジ号に生涯忠誠を誓う、航海誓願ってのもあるんだけど、それはとりあえず気にしなくていい。先ずはこの航海を無事に終えることに専念しないとね」
「うん」
 滔々とうとうと淀みない説明を切りあげ、オリバーはティカをじっと見つめた。
「次の航海も、ティカがいたら嬉しいな」
 思わず、ティカは笑顔になった。
「いるよ。ヘルジャッジ号は、もう僕の家も同然だもの」
 オリバーはほほえみ、嬉しそうにしっぽを揺らした。
「航海誓願を立てると、二人一組のバディを組むんだ。遺言書とか、あれこれ面倒な手続きも増えるけど、配給は一・二倍にあがるよ。俺はまだ立ててないけど、立てる時はティカとバディを組みたいな」
 オリバーの言葉が嬉しくて、ティカは満面の笑みを浮かべて頷いた。彼と同じ気持ちだった。