メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

17章:極光蚕白の涙 - 10 -

 期号ダナ・ロカ、一五〇四年三月十日。ヘルジャッジ号の出港日。
 春のきざしの薄寒いなか、ティカは目を醒ました。起きるにはちょっと早いが、逸る心を抑えきれず、懐かしい水夫服に着替えた。全身鏡の前に立ち、海賊に戻った自分を見て満足する。
 別荘での生活は最高だったけれど、やはりヘルジャッジ号が恋しかった。
 青空のした帆に風を受けて、無限の可能性と神秘に満ちた大海原へと飛びだしたかった。時に嵐がきて、怒涛と飛沫が船に打ち寄せ、巨濤きょとうに呑みこまれても、ヘルジャッジ号こそが憩いの我が家だ。
 他の船員も同じ気持ちなのか、造船所から船が牽引されていく様子を見守ろうと、彼らの多くが朝早くからギガントマス造船所に駆けつけた。シルヴィーに釘を刺されたにも関わらず、素寒貧すかんぴんになって、宿目当できている者もいたが、皆一様に笑顔である。
「ティカ!」
 明るい笑顔でオリバーが手をあげているのを見、ティカは喜色満面の笑みで駆け寄った。マクシムにドゥーガル、第七班の仲間が全員集まっている。
「皆、元気だった?」
 ティカが訊ねると、オリバーたちは笑顔で頷いた。
「噂の人魚はどこにいるんだ?」
 ブラッドレイが海岸に目をやりながら訊ねた。ティカはにっこりして、
「遊泳しているんだと思う。近くにいるから、あとで会えるよ」
 その時、熱狂的な拍手喝采が起きた。ヘルジャッジ号が造船所から姿を現したのだ。調律されたばかりの黒塗りの帆船は、雄々しくも美しい。
「ぴかぴかだな」
 オリバーが嬉しそうにいった。ティカもわくわくと高揚した気持ちで頷いた。船の仕上がりは予定より二十日ほど早く、万事滞りなく終了している。この船で、再び無限海を越えていくのだ。
 荷積みが始まり、ティカも手伝おうと腕まくりをしていると、イアンがやってきた。水夫姿のティカを見て、ちょっと驚いた顔をしている。
「親方や、俺たちが何か月もかけて仕上げたんだ。ヘルジャッジ号は最高の船だよ」
 ティカは満面の笑みを浮かべた。
「うんッ! ありがとう、イアン!!」
 イアンは照れたように視線を泳がせた。殴りあいの喧嘩をした二人だが、その後色々あり、今は和解している。イアンは水夫姿のティカをまじまじと見て、
「本当に海賊なんだな」
 肩を小突かれ、ティカは笑った。
「うん。これから甲板作業だよ」
「まさかティカが海賊になるとはね。世のなか何が起きるか判らないもんだな」
「イアンこそ! 造船所で働いているとは思わなかったよ。それもこんなに大きな造船所でさ」
「だって船って最高だろ? 俺の天職だよ」
 ティカは大きく頷いた。
「そうだね。船をどうやって作るのか、僕はちっとも知らなかったよ。造船所で大きな船が解体されたり、また組まれたりするのを見ていると、皆天才だなって思う」
 イアンは目を瞠り、嬉しそうな、澄んだ笑みを浮かべた。それから真面目な表情になり、
「あのさ……サーシャの葬儀は、彼女が亡くなった翌朝にしたよ。ティカはいなかったけど、幸福館の皆で編んだ花を、棺に入れたんだ」
「うん……僕、サーシャのお墓にいってきたよ」
 イアンはティカを見た。
「綺麗な霊園だったろ」
「うん。薔薇がたくさん咲いていた。大分遅くなっちゃったけど、僕もお花をもっていったよ」
「お前、あれから幸福館に戻ったのか?」
「ううん、帰っていない。キャプテンが、僕を引き取る手続きをしてくれたみたい」
 イアンはほっとしたような顔になった。それからにやっと笑い、
「船を追いだされるなよ」
「イアンこそ」
 二人はお互いの顔を見て笑った。
 と、サディールが高らかに笛を吹いた。別れの愁嘆場を繰り広げている船員たちは、続々とタラップを登り始めた。ティカもイアンに別れを告げると、甲板にあがった。
 ヘルジャッジ号の出港には、大勢の群衆が見送りにやってきた。そのなかには、ユージニア・グアンタモナの姿もあった。
 彼女は顔に薄いヴェールをかけて、襟元とウエストにさりげなく藍色をあしらった、白い繊細なドレスを着ている。
 楚々そそとした装いの美女は、ヴィヴィアンをじっと見つめていた。その姿は凛としていて、それでいて寂しげだった。
 ティカはぺこりとお辞儀をすると、彼女も洗練された仕草でお辞儀を返した。
(ごめんなさい、ユージニアさん……)
 ティカは心のなかで呟いた。
 同じ人を好きになった女性。美しい恋敵。ヴィヴィアンは渡せないけれど、それでも、彼女の幸せをねがっている。
 船縁でティカを見つけたヴィヴィアンは、楽しげに傍にやってきて、その視線を追いかけてユージニアに気がついた。三角帽子のつばに触れて、軽く会釈をする。彼女も優雅にドレスの裾をつまんでお別れの挨拶をした。
「ほら、サディールが呼んでるよ」
 ヴィヴィアンに肩を叩かれ、はっとしたティカは甲板を振り向いた。
「時間がないぞ! 野郎共ォッ、さっさと荷を運べ! 丁寧にだぞ!」
 甲板長の怒号が蒼天に響き渡る。ティカはもう一度ユージニアを見て、ぺこっと頭をさげると、慌てて甲板の上を走った。
 間もなく出航準備が整うと、ヴィヴィアンは露天甲板に立ち、手を掲げた。
「帆を張れェッ!!」
 彼が出航命令を叫ぶと、既に持ち場についている船員たちは、威勢のよい返事で応え、瞬く間に総帆してみせた。
 いい風が吹いている。黒い帆は風を受けてはらみ、今にも走りだしそうだ。
 バスドラムとスネアドラムの軽快なリズムにあわせて、屈強な男たちが錨鎖びょうさをまきあげていく。喫水線が揺れ動き、跳ねあがった飛沫が船縁を濡らした。
 汽笛が鳴り響くなか、全員が歯車のように機能し、全長一一〇メートルを越える巨体は、ゆっくりと舳先を沖合へ向けた。

 大海原にでてしばらく――
 アプリティカが海の果ての点となり消える頃になると、ティカとオリバーは航海誓願の儀式に臨んだ。
 青空のした、露天甲板でヴィヴィアンやシルヴィー、幹部船員たちの前に立ち、大勢の兄弟に見守られながら、
「「我らはヘルジャッジ号の船乗り。生涯キャプテン・ヴィヴィアンに忠誠を誓います!」」
 声高らかに唱和した。オリバーの青い瞳は、澄んだ海のように自信を宿して煌いている。ティカもだいだいの瞳を希望に輝かせた。二人はいつものように掌を打ち鳴らし、そのまま硬く握りあった。
「俺達はバディだ。兄弟」
「うん! よろしく、オリバー」
 宣誓は為された。生涯における船への忠節を誓った。この誓約に違反すれば、即刻死を免れぬ、とても重い誓いである。
 海賊ティカとオリバーは、拍手喝采、指笛を吹く仲間を見回し、今こそ人生で最も誇らしい瞬間だと感じていた。
「威勢のいいバディの誕生だな」
 ロザリオが面白がるように声をかけると、次々に祝福と労いの声がかかり、賑やかな合唱となった。
「おめでとう! ティカ!」
 突然、明るい少女の声が響いて、ティカは船縁に駆け寄った。海面からオデッサが顔をのぞかせている。
「オデッサ!」
 ティカは手を振って叫んだ。すると、他の兄弟も船縁から身を乗りだし、
「おおおおっ! あれが噂の人魚か」
「かわいいなぁ」
 鼻の下を伸ばして、人魚に手を振った。オデッサは照れて俯いたが、思い直したように顔をあげ、じっとティカを見つめた。
 彼女がなにをいおうとしているのか、ティカには予感めいた確信があり、輝くような笑みを浮かべた。
「オデッサ、僕たちと一緒にいこう!」
「え?」
「この船は無限海を越えていくんだ。いつか、オデッサの仲間がいる、精霊界ハーレイスフィアにだっていけるかもしれないよ!」
 オデッサの瞳が喜びに輝く。だが躊躇うように表情を曇らせた。
「でも私、ティカに酷いことをしたのに」
 ティカの胸に期待と興奮がこみあげた。橙の瞳から、太陽のようにきらきらと光があふれだした。
「僕を助けてくれたじゃないか! オデッサはもう、僕たちの仲間だよ!」
「でも、」
「いこうよ! 僕たちと一緒に、無限海にいこう!」
 オデッサの胸は高鳴った。この望みを口にしても許されるのだろうか? 期待に顔を輝かせ、
「い、いきたい……私もいきたい! 一緒にいっても、いいですか!?」
 最初は小さな呟きで、後半は、甲板に集まった船員たち全員に向けて発せられた。当然、ティカも兄弟たちも笑顔になった。
「「もちろん!」」
 唱和したあとで、ティカはうかがうようにヴィヴィアンを見た。彼の瞳に悪戯っぽい光が灯っているので、ティカは嬉しくなった。
 だが、冷静な航海士は、浮かれている一同に水を差すことを恐れはしなかった。
「くるのは構わないが、船の速さについてこれるか? 基本的に航海している間は、二十四時間進むんだぞ」
「大丈夫! この尾ヒレはとても強力なの。もし遅れても、あとから追いつくわ」
 オデッサは胸を張って答えた。まぁまぁ、とヴィヴィアンが間に割って入る。
「いいじゃない、この船に彼女が休めるちょっとした工夫をしたってさ」
「キャプテン、ありがとうございます!」
 ティカは勢いよく頭をさげた。ヴィヴィアンは鷹揚に頷いたあと、オデッサに目配せした。
「乗船を許可しよう、オデッサ。今日から君も、ヘルジャッジ号の一員だよ。ティカたちのいる第七班に配属だ。船の傍を泳ぐときは、網や錨で傷つかないようにね」
「ありがとう!」
 オデッサは笑顔になり、両手をつきだして万歳したあと、海面に潜ってから嬉しそうに跳躍した。
 少女の満面の笑みを見て、ティカの心が熱く震えた。感動を分かちあおうと、ヴィヴィアンを振り仰ぐ。青い目と遭い、不意に胸にこみあげるものがあった。
「キャプテン……」
 呼びかけたものの、その先の言葉に詰まってしまった。
 この気持ちを、どう表現すればいいだろう?
 アプリティカでは、本当に色々なことがあった。これまでにも辛いことや大変なことはあったが、奴隷売買を知り、苦悩したことが一番辛かったように思う。どうすべきか判断に迷い、ヴィヴィアンに疎まれたとしても、自分の考えを貫くと決心した時の気持ちは、単純には言葉にできない。たまらなく不安で、ありったけの勇気が必要だった。
 だけどヴィヴィアンが、ヘルジャッジ号の仲間が、手を貸してくれた。下船して休暇しているはずなのに、駈けつけてくれたことが、本当に嬉しかった。
「ありがとうございました!」
 突然に大声をだすティカに、甲板中の視線が集まった。
「皆がいなかったら、僕は今、ここにはいません!」
 涙の滲んだ橙の瞳で、声を潤ませながら感謝の言葉を口にするティカに、幾つもの暖かな視線が向けられた。ヴィヴィアンはティカの頭を優しく撫でた。
「よく頑張ったね、ティカ。考えることは苦手なのに、今回はとことん悩んで、自分の答えを見つけてみせた。俺に対しても、きちんと意見をいえたね。そんなティカだから、俺も船の皆も、ついつい手を貸しちゃうんだよ」
「ふぅ……ッ」
 誇らしい気持ち、安堵の気持ち、喜び。様々な想いがティカの中でふくれあがり、熱い涙となって零れ落ちた。
「あ、ありがとう……ござ……うぅぅ――……っ」
 もはやそれ以上は言葉にならなかった。腕で顔を隠し、声をあげて泣くティカの頭に、船員は代わる代わる手を伸ばして、無造作に撫でまわした。
「やるじゃん、ティカ」
 ロザリオが笑っていう。
「頑張ったな」
 普段は厳しいシルヴィーも笑顔でティカを労った。
「大きな仕事をやり遂げましたね。立派でしたよ」
 ユヴェールがにっこり笑っていう。プリシラとジゼルは、それぞれ左右からティカの頬にキスを贈った。
「ッ!?」
 真っ赤になり、涙の止まったティカを見て、どっと笑いが起こった。

 +

 期号ダナ・ロカ、一五〇四年。精霊セトの祝福する三月。
 エステリ・ヴァラモン海賊団はアプリティカを出港し、西に舵を切る。目指すは海賊たちの楽園、スナプラ島。
 一生を遊べるほどの金塊が集められる――噂を聞きつけ、多くの海賊たちが、一攫千金を夢見て集まろうとしている。
 だがそれは、ビスメイル帝国の策略。海賊たちを一毛打尽にせしめる“無限海の夜明け”作戦である。
 ビルメイル帝国の枢密顧問官にして大海賊、ジョー・スパーナにより、強力な合成獣キメラの部隊が結成されようとしていた。同盟国と手を組み、海の模倣者たちを一掃するのだ。
 海軍と海賊。幸運の女神は、果たしてどちらにほほえむのか?

 無限海をいく冒険者たちよ。海を敬い、心を見つめる者を、女神アトラスはよみしたもう。