HALEGAIA
8章:俺たちの日常 - 9 -
「完敗です。魔王様、御無礼つかまつりました」
古風な謝罪と共に、火神唯織を筆頭に、巫女や信徒たちは丁寧に頭をさげた。
御仏 が顕現したこの場所に、穢れはもうなかった。恐ろしくも偉大な鬼神のおかげで、霊験あらたかなる聖地となったのだ。
地獄の使者が人間を呪殺した。それもまた、天命なのかもしれない。唯織は朧 ながら、天使と悪魔の金科玉条 を理解していた。
心から敬服している様子の彼らを、ミラは無感動に眺めやった。腕輪がないので視線は殺気を帯びているが、悪魔の象徴である角と翼はすでに消えている。
「もう判ったと思いますが、陽一はこの星の最後の良心です。彼がいる限り、僕は滅多なことでは 人間に手をだしません」
ミラは笑っていた。紫の瞳に蔑視の光の湛え、くちびるに辛辣な軽侮の微笑を含んで、声もなく笑っていた。凶暴な底意を含んだ嘲弄だった。
「承りました」
怯えながらも、唯織は神妙な顔で頷いた。
「逆にいえば、陽一に何かあれば世界が滅ぶと肝に銘じなさい。今後は国家権力を尽くしてバックアップするように」
とんでもない命令に、はっ、と火神一族は忠臣よろしく平伏して答えた。
黙って様子を窺っていた陽一は、慌てふためいた。
「いやいやいや、スケール大きいから! 国家権力って何!?」
唯織は顔をあげると、真摯な目で陽一を見た。
「しかと承りました。今後は内外の権威を駆使して、遠藤様を御守り申しあげます」
くらり、陽一は眩暈を覚えた。なんか知らないが、国家権力を手に入れてしまったらしい。
「火神の頭首、そう落ちこむことはありません。人間にしては、お前の法力はなかなかのものです」
凄まじい上から目線だが、唯織は殊勝に頷いた。
「ありがたく存じます。御方様、僭越ながら一つ、お耳に入れたいことがございます」
「なんです?」
「先に申しあげました通り、秋頃から魑魅魍魎は急速に勢いを増しています。放置すれば、東京を埋め尽くすほどの百鬼夜行になりかねません。我らも各所で祭祀祈禱を行っていますが、とても追いつきません」
陽一は内心でダラダラと冷や汗をかいた。秋頃といえば、心当たりは一つしかない。ミラが転校してきたせいだ。彼の最終目的は、百鬼夜行どころか地球人類殲滅である。
「結界の衰退は、神の峻厳 な掟によって定められています。まぁ、執行猶予をもらえただけ良かったじゃありませんか。地球が滅びるにしても、十年は先の話ですよ」
さらっとミラがいった。
「意外とすぐじゃねぇか!」
思わず陽一はツッコミをいれた。唯織は半信半疑といった様子で、奇妙な顔をしている。
「放置すればの話です」
「……え、本当に十年なの?」
不安そうに訊ねる陽一を見て、ミラはほほえんだ。
「人間次第ですよ」
ミラは飄々 とした口調でいった。唖然としている唯織に視線を戻すと、
「火神 の頭首、この星の寿命を延ばしたければ、穢れを払い続けることです。神のお得意の試練というやつです。天は努力する者を嘉 したもう。健気に続けていれば、人類滅亡の日が遠のくかもしれませんよ」
「精進いたします」
唯織は粛々と頷いた。
「とはいえ、僕がいる処 は、境界が歪みやすいのも事実。迷惑料として、多少は力を貸しましょう。お前たちの手に負えない事案は片づけてあげます」
唯織は、ぱっと顔をあげた。驚いた顔をしている。
「よろしいのですか?」
「そうですねぇ……対価は、陽一に支払っていただいましょうか」
「なんでだよ!」
「判るでしょう? 地球の命運は、陽一の献身にかかっているんです。僕につれなくしていいんですか?」
悪魔が調子づいて煽ってくる。陽一はイラッとしたが、ぐっと反論を飲みこんだ。先ほどから注目を浴びすぎている。
ともかく――
万事解決と結ぶには語弊があるかもしれないが、この場は解散となった。
唯織は、ミラと陽一を車で送ると申し出たが、ミラは断った。
どうするつもりか陽一が訊ねようとした次の瞬間、柔らかい弾力を背中に感じた。
「っ?」
陽一の顔の横に、ミラは手をついている。寝台の上だ。アドリア海の別荘に転移したのかと思ったが、様子が違った。
甘い蜜蝋の香り。燭台の淡い光に照らされた、黒天鵞絨 の豪奢な天蓋。まさか、ここは……
「僕の寝室です」
「……魔王城 」
「好きです、陽一。愛している……怖がらないで。僕はもう、絶対に陽一を傷つけたりしないよ」
菫色の瞳が薄闇のなかで光って見える。紫の瞳の底で、烈しい欲望と哀願が滲んでいた。
陽一の躰を、ぞくりとした震えが襲った。かつて火あぶりにされた、ジュピターの無慙な姿が脳裏を掠めたが、それでも、ミラを怖いとは思わなかった。
「ここで陽一を抱きたい。ずっとそうしたかった」
長い指がパーカーの内側にもぐりこみ、陽一の素肌を撫でた。
「良いでしょう?」
艶やかな眼差しが、まっすぐに陽一を見つめている。
「……うん」
陽一は小さく頷いた。初めてここへきた時とは違う。ミラだけではなく、陽一も変わったのだ。ふたりで過ごした魔界 の凝縮された時間、それからの二ヶ月余りの日常生活が、陽一の心に確実に光を注いだ。
「どれほどこの時を待ち焦がれたことか」
囁きながらミラは、陽一の髪に顔を伏せ、その耳にくちびるを押し当てた。優しい吐息を首筋に感じて、陽一は眩暈がした。強靭な腕のなかに深く囚われて、身動きもできない。狂喜が躰を駆け抜け、甘い期待に貫かれた。
「……待って、シャワー」
あえぐような声でいった陽一から、ミラは顔を起こし、微笑を含んだ菫色の瞳で見つめた。
「このままでいいよ、陽一の匂いに包まれたい」
最後の言葉は、陽一のくちびるのうえで囁かれ、押しつぶされて、激しいくちづけに変わった。しなやかで長い指が陽一のパーカーの裾に触れ、服のしたにもぐりこむ。日に焼けていない胸を顕にすると、ミラはくぐもった声をあげた。腕を背にまわして陽一の腰を荒々しく引き寄せると、のけぞった胸に噛みつくようにくちづけた。硬く尖り、主張する乳首を食んで舐り、陽一を見悶えさせた。
「陽一だけ、こんな、血と官能を刺激されるのは……っ」
荒 ぶ悪魔さながら、いつにない激情を見せるミラに、陽一は翻弄された。強引で執拗な愛撫の虜になって、夢中でミラの背に腕を回した。滾 る血潮を躰の裡で感じて、締めつけて、迸らせて、何度も何度も、気の遠くなるような絶頂を迎えた。
「愛している……」
陶酔のなか、ミラの囁きを聞いた気がした。
濃密な情事のあと、陽一は躰の火照りを冷ましてから、家に帰ってきた。
なんとも長い一日だった。体感では数日経過しているが、現実世界では四時間しか経過していなかった。まだ三日の夜である。
お休みの挨拶をくちにし、家に入ろうとした陽一を、ミラは呼び止めた。
「火神の頭首にはああいったけれど、陽一のことは、僕が守ります」
一瞬、陽一はなんのことか判らず、目を瞬いた。すぐに国家権力云々を思いだし、半目になった。
「そうだった、お前なぁ……唯織さんに変なこというなよ。国家権力とか何だよそれ」
「立場は弁 えさせておかないと。それに人間社会で暮らすなら、国家権力を持っていた方がいいでしょう?」
「よくねぇよ」
陽一は、強張った表情を、努力して元に戻した。ミラと目があう。悪魔らしからぬ一途な眼差しで、陽一を心配そうに見つめている。
「……ありがと、色々と」
陽一は笑みをこぼした。
これが正しいやり方だったのかは判らないが、ミラのおかげで、家族を守ることができた。
それに正直なところ、犯人が死んだと聞いてほっとしていた。もし生きていたら……刑期を終えて出所する可能性を思うと、ゾッとする。
そういう心配がなくなった。
あいつはもう、此の世にいないのだから。そこに悪魔の恣意 があったとしても……
感謝の気持ちで陽一が見つめていると、ミラは、ちょっとはにかんだ。
「じゃあ、褒めてください」
撫でやすいように、自ら頭をさげるミラを見て、陽一は笑った。危険極まりない悪魔なのに、無邪気で天真爛漫で、かわいいと思う。
「よしよし」
手を伸ばして、さらさらの黒髪を撫でる。何度かそうしてから手を離すと、ミラは顔をあげて、嬉しそうににっこりした。
眩しいほどの、微笑。まっすぐにこちらを見つめる美しい眼差しに、陽一の心臓が高鳴る。弾んだ気持ちのまま、くちを開いた。
「明日、初詣にいかない? 地元を案内するよ」
ミラの顔がぱっと輝いた。
「嬉しい! デートのお誘いですね、喜んで」
無邪気な笑顔に、陽一も笑み返した。自分からデートに誘ったのは、これが初めてだった。
古風な謝罪と共に、火神唯織を筆頭に、巫女や信徒たちは丁寧に頭をさげた。
地獄の使者が人間を呪殺した。それもまた、天命なのかもしれない。唯織は
心から敬服している様子の彼らを、ミラは無感動に眺めやった。腕輪がないので視線は殺気を帯びているが、悪魔の象徴である角と翼はすでに消えている。
「もう判ったと思いますが、陽一はこの星の最後の良心です。彼がいる限り、僕は
ミラは笑っていた。紫の瞳に蔑視の光の湛え、くちびるに辛辣な軽侮の微笑を含んで、声もなく笑っていた。凶暴な底意を含んだ嘲弄だった。
「承りました」
怯えながらも、唯織は神妙な顔で頷いた。
「逆にいえば、陽一に何かあれば世界が滅ぶと肝に銘じなさい。今後は国家権力を尽くしてバックアップするように」
とんでもない命令に、はっ、と火神一族は忠臣よろしく平伏して答えた。
黙って様子を窺っていた陽一は、慌てふためいた。
「いやいやいや、スケール大きいから! 国家権力って何!?」
唯織は顔をあげると、真摯な目で陽一を見た。
「しかと承りました。今後は内外の権威を駆使して、遠藤様を御守り申しあげます」
くらり、陽一は眩暈を覚えた。なんか知らないが、国家権力を手に入れてしまったらしい。
「火神の頭首、そう落ちこむことはありません。人間にしては、お前の法力はなかなかのものです」
凄まじい上から目線だが、唯織は殊勝に頷いた。
「ありがたく存じます。御方様、僭越ながら一つ、お耳に入れたいことがございます」
「なんです?」
「先に申しあげました通り、秋頃から魑魅魍魎は急速に勢いを増しています。放置すれば、東京を埋め尽くすほどの百鬼夜行になりかねません。我らも各所で祭祀祈禱を行っていますが、とても追いつきません」
陽一は内心でダラダラと冷や汗をかいた。秋頃といえば、心当たりは一つしかない。ミラが転校してきたせいだ。彼の最終目的は、百鬼夜行どころか地球人類殲滅である。
「結界の衰退は、神の
さらっとミラがいった。
「意外とすぐじゃねぇか!」
思わず陽一はツッコミをいれた。唯織は半信半疑といった様子で、奇妙な顔をしている。
「放置すればの話です」
「……え、本当に十年なの?」
不安そうに訊ねる陽一を見て、ミラはほほえんだ。
「人間次第ですよ」
ミラは
「
「精進いたします」
唯織は粛々と頷いた。
「とはいえ、僕がいる
唯織は、ぱっと顔をあげた。驚いた顔をしている。
「よろしいのですか?」
「そうですねぇ……対価は、陽一に支払っていただいましょうか」
「なんでだよ!」
「判るでしょう? 地球の命運は、陽一の献身にかかっているんです。僕につれなくしていいんですか?」
悪魔が調子づいて煽ってくる。陽一はイラッとしたが、ぐっと反論を飲みこんだ。先ほどから注目を浴びすぎている。
ともかく――
万事解決と結ぶには語弊があるかもしれないが、この場は解散となった。
唯織は、ミラと陽一を車で送ると申し出たが、ミラは断った。
どうするつもりか陽一が訊ねようとした次の瞬間、柔らかい弾力を背中に感じた。
「っ?」
陽一の顔の横に、ミラは手をついている。寝台の上だ。アドリア海の別荘に転移したのかと思ったが、様子が違った。
甘い蜜蝋の香り。燭台の淡い光に照らされた、黒
「僕の寝室です」
「……
「好きです、陽一。愛している……怖がらないで。僕はもう、絶対に陽一を傷つけたりしないよ」
菫色の瞳が薄闇のなかで光って見える。紫の瞳の底で、烈しい欲望と哀願が滲んでいた。
陽一の躰を、ぞくりとした震えが襲った。かつて火あぶりにされた、ジュピターの無慙な姿が脳裏を掠めたが、それでも、ミラを怖いとは思わなかった。
「ここで陽一を抱きたい。ずっとそうしたかった」
長い指がパーカーの内側にもぐりこみ、陽一の素肌を撫でた。
「良いでしょう?」
艶やかな眼差しが、まっすぐに陽一を見つめている。
「……うん」
陽一は小さく頷いた。初めてここへきた時とは違う。ミラだけではなく、陽一も変わったのだ。ふたりで過ごした
「どれほどこの時を待ち焦がれたことか」
囁きながらミラは、陽一の髪に顔を伏せ、その耳にくちびるを押し当てた。優しい吐息を首筋に感じて、陽一は眩暈がした。強靭な腕のなかに深く囚われて、身動きもできない。狂喜が躰を駆け抜け、甘い期待に貫かれた。
「……待って、シャワー」
あえぐような声でいった陽一から、ミラは顔を起こし、微笑を含んだ菫色の瞳で見つめた。
「このままでいいよ、陽一の匂いに包まれたい」
最後の言葉は、陽一のくちびるのうえで囁かれ、押しつぶされて、激しいくちづけに変わった。しなやかで長い指が陽一のパーカーの裾に触れ、服のしたにもぐりこむ。日に焼けていない胸を顕にすると、ミラはくぐもった声をあげた。腕を背にまわして陽一の腰を荒々しく引き寄せると、のけぞった胸に噛みつくようにくちづけた。硬く尖り、主張する乳首を食んで舐り、陽一を見悶えさせた。
「陽一だけ、こんな、血と官能を刺激されるのは……っ」
「愛している……」
陶酔のなか、ミラの囁きを聞いた気がした。
濃密な情事のあと、陽一は躰の火照りを冷ましてから、家に帰ってきた。
なんとも長い一日だった。体感では数日経過しているが、現実世界では四時間しか経過していなかった。まだ三日の夜である。
お休みの挨拶をくちにし、家に入ろうとした陽一を、ミラは呼び止めた。
「火神の頭首にはああいったけれど、陽一のことは、僕が守ります」
一瞬、陽一はなんのことか判らず、目を瞬いた。すぐに国家権力云々を思いだし、半目になった。
「そうだった、お前なぁ……唯織さんに変なこというなよ。国家権力とか何だよそれ」
「立場は
「よくねぇよ」
陽一は、強張った表情を、努力して元に戻した。ミラと目があう。悪魔らしからぬ一途な眼差しで、陽一を心配そうに見つめている。
「……ありがと、色々と」
陽一は笑みをこぼした。
これが正しいやり方だったのかは判らないが、ミラのおかげで、家族を守ることができた。
それに正直なところ、犯人が死んだと聞いてほっとしていた。もし生きていたら……刑期を終えて出所する可能性を思うと、ゾッとする。
そういう心配がなくなった。
あいつはもう、此の世にいないのだから。そこに悪魔の
感謝の気持ちで陽一が見つめていると、ミラは、ちょっとはにかんだ。
「じゃあ、褒めてください」
撫でやすいように、自ら頭をさげるミラを見て、陽一は笑った。危険極まりない悪魔なのに、無邪気で天真爛漫で、かわいいと思う。
「よしよし」
手を伸ばして、さらさらの黒髪を撫でる。何度かそうしてから手を離すと、ミラは顔をあげて、嬉しそうににっこりした。
眩しいほどの、微笑。まっすぐにこちらを見つめる美しい眼差しに、陽一の心臓が高鳴る。弾んだ気持ちのまま、くちを開いた。
「明日、初詣にいかない? 地元を案内するよ」
ミラの顔がぱっと輝いた。
「嬉しい! デートのお誘いですね、喜んで」
無邪気な笑顔に、陽一も笑み返した。自分からデートに誘ったのは、これが初めてだった。