HALEGAIA
8章:俺たちの日常 - 5 -
土曜日、驚くほど平穏な朝がやってきた。
目をこすりながらリビングに顕れた理沙を見て、陽一も母もほっとした。
陽一は、理沙のことが心配で部活を休んだが、当の本人は元気いっぱいで友達の家に遊びにいった。今日くらいは家にいればいいのに、と思わなくもないが、理沙は昨日の出来事を覚えていないので仕方ない。
暇になったので、ミラの家に遊びにいくことにした。連絡もせずインターホンを鳴らすと、ほとんど間を置かずに扉が開いて、
「お早う、陽一」
ミラは爽やかな笑顔で出迎えてくれた。
玄関に脚を踏み入れようとした陽一は、ふと立ち止まった。密かに気になっていたことを訊ねてみることにした。
「この家さ、前は田中、さんが住んでいたじゃん。もしかして、その……殺人現場だったりする?」
ミラは薄笑いを浮かべた。
「聞かない方がいいですよ」
「いや、逆に気になるから……ってことは、やっぱりそうなの?」
「リビングと洋間、風呂場は現場でしたね。陽一は嫌がると思って、廊下から先は別荘に繋げたんです。それとも、家ごと建て直した方がいいですか?」
ぞぞぞ~……っと総毛立った陽一は、ちょっと考えてから、神妙な顔で頷いた。
「……できればそうしてほしい。ついでに御祓いもしてほしい」
ミラはくすっと笑った。
「建て直しは構いませんが、御祓いは無意味ですよ」
「気分的に」
「魑魅魍魎なんて僕が一瞬で消せますよ。どうぞ、あがってください。別荘にいきましょう」
「お邪魔します」
陽一は靴を脱ぐと、用意されたスリッパに脚をすべらせた。
リビングの扉をあけると、アドリア海の爽やかな風が吹き抜けていった。優雅で心地いい音楽が流れていて、忽 ちリゾート気分になる。
「散歩にいきましょうか」
ミラに誘われて、陽一は用意された白いサンダルを引っかけてプライベートビーチへおりた。
柔らかな日差しを浴びながら、手を繋いで、砂浜を歩いていく。
しばらくいったところで、陽一は脚を止めた。
「……しばらく、海を見ていていい?」
「もちろん」
ミラは指を鳴らすと、シートとパラソルを出現させた。影の下に陽一は腰をおろすと、ぼーっと海を眺めることにした。
波の音。
風の音。
波の音。
風の音。
静かな自然に身をゆだね、頭を空っぽにする。打ち寄せる波の音を聴きながら、長いこと動かずにいた。
やがて陽が傾いて空気が冷えてくると、ミラは暖かな毛布で陽一を包みこんだ。熱を分け与えるように腕をさすりながら、
「そろそろ戻りませんか? 冷たくなっていますよ」
陽一は海を見つめたまま、別のことを訊ねた。
「あの子、成仏できたと思う?」
頬に物言いたげな視線を感じながら、さらに続けた。
「俺に憑いてたわけじゃなくて、理沙に危険が迫っていることを、教えてくれていたんだよね」
「そうですね」
「……成仏できたと思う?」
「そのうちするでしょう。少なくとも、彼女が地上に留まっている気掛かりの一つは、陽一が解決したと思いますよ」
ミラは穏やかな声で答えた。
「……俺さ、あの子のこと、最初は怖いって思っちゃったんだよね。助けてくれたのに……なんか、悪いことしちゃったな」
項垂れる陽一の髪を、ミラは優しく撫でた。
「そんなことありませんよ。彼女は、感謝していると思いますよ」
「……そうかなぁ」
「田中成美が遺体の場所を自供しましたよ。じきに家族に引き渡されて、然るべき作法で弔ってもらえるでしょう」
陽一は目を丸くして、ミラを見た。
「そうなの? あの子の遺体も?」
「ええ、同じ場所に埋められているそうです。群馬県の山奥に」
「なんで知っているの?」
「オデュッセロからの報告です。彼には事後処理を任せてありますから」
「そう……」
不安そうな陽一を見て、ミラは提案した。
「見にいってみますか?」
「……いいの?」
「お安い御用です」
ミラは陽一を手を引いて立たせると、ぎゅっと抱きしめた。一瞬の浮遊感があり、気がつけば、白い冬景色のなかにいた。
「えっ……」
声にだした陽一は、慌てて口を手でふさいだ。周囲に、警察関係者が大勢いたのだ。
「彼らに僕たちの姿は見えていないし、声も聴こえませんよ」
ミラの言葉に陽一は安堵したが、心臓は烈しく動悸している。誰にも注目されていないとはいえ、明らかに一般人は立ち入り禁止区域だ。
粉雪の舞うなか、防寒具に身を包んだ捜査員たちが懸命に捜索を続けている。
その様子を、陽一はじっと見ていた。
吐く息は白いのに寒いと感じないのは、ミラが傍にいるからだろう。無意識に温めようとしてくれているのかもしれない。彼の肌からたちのぼる熱と香りに、意識を奪われる。
ブルーシートのかけられた担架が運びだされるのを見て、陽一は慌てて手をあわせ、黙祷を捧げた。
「殺害された少女たちです。遺体は見えないよう配慮されていますね」
ミラの声は落ち着いていて、降り積もる雪のように静謐 だった。
上空を飛ぶヘリコプターの駆動音が聴こえる。捜査の様子を撮影しているのだろう。
“ありがとう”
はっとして視線を彷徨わせると、雪の木立の傍に、少女がいた。
最初に見たときと違って、昏い翳りはなく、清らかな輝きを帯びている。
「こちらこそ、ありがとう……彩音ちゃんのおかげで、妹を助けることができたよ」
名前を呼ぶと、少女は嬉しそうに笑って頷いた。きらきらと光に透けていき、自然に溶けるようにして消えた。
陽一の目頭が燃えるように熱くなった。堪える間もなく、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「陽一?」
「あの子、死んじゃったんだね」
一瞬の間をおいて、陽一は続けた。
「理沙と同い年なんだよ……あんなに小さい子が、こんな、寂しい場所に埋められて、なんでっ……」
ミラは陽一を抱き寄せて、頭を撫でた。陽一も胸に顔を埋めて、縋りついた。犯人は十年も隣の家に住んでいたのに、まるで気がつかなかった。何も知らないで、呑気に過ごしていた。もっと早く異変に気がついていれば、止めることができたかもしれない。助けてあげられたかもしれないのに!
次から次へと心に湧きおこる想い、悔悟 に押し潰されてしまいそうだった。
「陽一……」
大きな手が優しく背中を撫でてくれる。
暖かい腕のなかで慰めを貪っていると、ふと人の気配が途絶えたことに気がついた。
不思議に思って顔をあげると、どうしたことか、辺りは真っ暗だった。
「えっ……」
警察はもう撤収したのだろうか?
驚く陽一を宥めるように、抱きしめるミラの腕に力がこめられた。
「少し移動しただけです。空を見てごらん」
ミラにいわれて、陽一は顔をあげた。
細い三日月と、遍 く星は銀色の小さな欠片になって、雨のように降り注いでくるみたいだ。
「すごい……」
思わず囁き声が漏れた。
空を横切っているのは、本物の天の川だ。
全銀河系が、今、目の前にある。何万、何億という星。宇宙にある無数の星が、煌めいている。
圧倒的な星の量、落ちてきそうな星の厚みに、ぞくっとする。山中先生のいった通りだった。落ちてこんばかりの星というものは、美しくも恐ろしい。
自分のちっぽけさを感じるからだろうか?
天空には、陽一の知る世界よりも、はるかにたくさんの世界がある。宇宙の広さに比べたら、陽一なんて砂粒よりもちっぽけな存在だ。
「ここは、彼女たちが埋められていた場所の近くですよ。山奥だから人はいないけれど、空気は澄んでいて、星はこんなに綺麗に見えるんです。悪魔の僕がいうのも変ですけど、とても清涼な場所ですよ。少女たちの哀しみも、ここの空気に癒されたのでしょう」
「……そう、なのかな……」
「あの子も、じきに天界 に召されますよ。だから、お別れをいいにやってきたんじゃありませんか?」
「……うん……うん……っ」
陽一は涙をぬぐいながら、少し笑った。来世ではどうか幸せに長生きしてほしい。
「少しだけ空を飛んでみませんか? ちょっとしたサプライズがあるんです」
ミラの言葉に、陽一はきょとんとした。涙を手で押しぬぐい、
「空を飛ぶって?」
「そのままの意味ですよ。僕と一緒に、空を飛んでみませんか?」
ミラは陽一の瞳を覗きこみ、頭をさげた。キスこそしないけれど、くちびるが触れそうな距離だ。
「陽一をこの腕に抱いて、夜空を飛んでみたい……いいでしょう?」
吐息が触れて、陽一は震えた。少年めいた高揚感、空への憧れが高まって渦をまく。今、ミラの手をとれば、きっと素晴らしい世界に連れていってくれる。幽 かに未知への恐怖もあるけれど、わくわくする気持ちの方が強かった。
「判った」
さし伸べられた手を陽一がとると、ミラはほほえんだ。
「ぅわっ、浮いた!」
つま先からふわりと浮きあがり、地面が引き遠ざかっていく。彼に全身を預けなくても、手に触れてさえいれば、無重力になれるようだ。
「大丈夫、離さないから。怖がらないで」
「怖くないっ、すごい!」
上空からみおろす夜の街は、きらきら宝石を鏤めたみたいに輝いている。
感覚という感覚で夜を味わう。
雲のうえにでると、ミラの魔力で空気抵抗は減殺されて、心地よい風のそよぎを感じるばかりだった。
細い三日月と、満天の星は銀色の小さな欠片になって、雨のように降り注いでくるみたいだ。
見惚れる陽一に、ミラは囁いた。
「気に入った?」
「うん……すごい……」
「宇宙にもいけますよ」
「まさか」
冗談だと思ったけれど、自信に満ちたミラの表情を見て、本気なのだと悟った。
「マジで?」
「マジです。ミルコメダス銀河まで人間の尺で二五四万光年。僕なら瞬きする間にいけます」
「いや、でも、宇宙って真空でしょ? 死ぬんじゃ?」
ミラはくちの端をひょいとあげて笑った。
「どうということはありません。僕は悪魔ですから。いってみますか?」
菫色の瞳が悪戯っぽく煌めいた。いくと答えれば、きっと彼は本当に連れていってくれるのだろう。幻想物語のような星間飛行の旅に。
「う、うーん……興味はあるけど……やめておく。さすがに怖いし」
「そうですか?」
「うん、こうして空を飛ぶだけで十分。ありがとう、ミラ」
屈託のない笑みを見て、ミラは腕をまきとるようにして陽一を引き寄せた。
「わ、何?」
陽一は慌ててミラの胸に手をついた。宙に浮いている状態で予想外の動きをされると、色々な意味でドキドキする。
「かわいいね、陽一」
ミラは愛おしそうに囁いた。
「!?」
陽一は、ぶわっと顔が赤くなるのを感じた。
「お安い御用ですよ、陽一。僕と一緒にいれば、いつだって、どこにだって連れていってあげます」
「……うん」
ゆっくり飛行しながら、陽一もミラの背中にそっと腕をまわした。
「走るときの高揚感とは違うかもしれませんが、空を飛ぶのもなかなか良いでしょう?」
どこか誇らしげにいうミラに、陽一はほほえんだ。なかなか、なんてものじゃない。すごく良い。
「最高の気分だよ」
陽一が抱擁をほどこうとすると、ミラは笑った。
「僕の手を離しちゃだめだよ」
「うん、でも動けないし。そろそろ帰ろうよ」
ミラは片方の手を繋いだまま、陽一の躰を離した。ふたりで空を泳ぐように飛行しながら、その速さはぐんぐんあがっていき、眼下の景色は凄まじい速さで流れていく。
元の速さに戻ったとき、あまりのギャップに世界が止まったように感じられた。
「すげー、江戸川が見える!」
あっという間に地元に戻ってきた。少しずつ高度をさげるうちに、学校や自宅が見えてきた。
「……ん? ミラの家、変わった?」
陽一は頸を傾げた。ミラの家の外観が、遊びにきたときと変わっている。
その質問には答えず、ミラは、ゆっくり家の前に着地すると、
「サプラーイズ☆」
悪戯が成功したような顔で笑った。
「は、えぇッ!?」
「驚きました? リビングの扉は別荘に繋げたままですけれど、ちゃんと新築ですよ」
「行動早すぎだろ!」
「陽一に喜んでほしくて」
玄関前におろしてもらった陽一は、ミラを仰ぎ見て、苦笑気味に笑った。
「も~、でたらめすぎるでしょー。でもありがとう、理沙のことも、今日も……落ちこむ暇もないっていうか……なんか、ミラのおかげで元気でたわ」
「良かった」
そういって、ミラは目を細めて陽一を見下ろすと、顔をさげて、くちびるに触れるだけのキスをした。
「愛している、かわいい僕の陽一、僕だけの星。今夜は穏やかな眠りが訪れますように……ゆっくり休んでね」
陽一は、自分の躰の奥で輝く暖かな光を感じた。光は太陽の輻 のように放射されて、全身から溢れでそうだ。神の加護とは異なる、ミラによって与えられる強大な守護の力。
照れて言葉に詰まる陽一を見て、ミラはくすっと笑った。
「お休みなさい、また明日」
「……お休み」
陽一は照れ笑いを浮かべつつ、玄関の内門を閉めた。ミラと同じ気持ちなのに、彼のように素直に言葉にすることができない。
扉をあけて家のなかに入り、しめる際に振りかえって、かける言葉を躊躇い……結局、小さく手を振ってから扉をしめた。
目をこすりながらリビングに顕れた理沙を見て、陽一も母もほっとした。
陽一は、理沙のことが心配で部活を休んだが、当の本人は元気いっぱいで友達の家に遊びにいった。今日くらいは家にいればいいのに、と思わなくもないが、理沙は昨日の出来事を覚えていないので仕方ない。
暇になったので、ミラの家に遊びにいくことにした。連絡もせずインターホンを鳴らすと、ほとんど間を置かずに扉が開いて、
「お早う、陽一」
ミラは爽やかな笑顔で出迎えてくれた。
玄関に脚を踏み入れようとした陽一は、ふと立ち止まった。密かに気になっていたことを訊ねてみることにした。
「この家さ、前は田中、さんが住んでいたじゃん。もしかして、その……殺人現場だったりする?」
ミラは薄笑いを浮かべた。
「聞かない方がいいですよ」
「いや、逆に気になるから……ってことは、やっぱりそうなの?」
「リビングと洋間、風呂場は現場でしたね。陽一は嫌がると思って、廊下から先は別荘に繋げたんです。それとも、家ごと建て直した方がいいですか?」
ぞぞぞ~……っと総毛立った陽一は、ちょっと考えてから、神妙な顔で頷いた。
「……できればそうしてほしい。ついでに御祓いもしてほしい」
ミラはくすっと笑った。
「建て直しは構いませんが、御祓いは無意味ですよ」
「気分的に」
「魑魅魍魎なんて僕が一瞬で消せますよ。どうぞ、あがってください。別荘にいきましょう」
「お邪魔します」
陽一は靴を脱ぐと、用意されたスリッパに脚をすべらせた。
リビングの扉をあけると、アドリア海の爽やかな風が吹き抜けていった。優雅で心地いい音楽が流れていて、
「散歩にいきましょうか」
ミラに誘われて、陽一は用意された白いサンダルを引っかけてプライベートビーチへおりた。
柔らかな日差しを浴びながら、手を繋いで、砂浜を歩いていく。
しばらくいったところで、陽一は脚を止めた。
「……しばらく、海を見ていていい?」
「もちろん」
ミラは指を鳴らすと、シートとパラソルを出現させた。影の下に陽一は腰をおろすと、ぼーっと海を眺めることにした。
波の音。
風の音。
波の音。
風の音。
静かな自然に身をゆだね、頭を空っぽにする。打ち寄せる波の音を聴きながら、長いこと動かずにいた。
やがて陽が傾いて空気が冷えてくると、ミラは暖かな毛布で陽一を包みこんだ。熱を分け与えるように腕をさすりながら、
「そろそろ戻りませんか? 冷たくなっていますよ」
陽一は海を見つめたまま、別のことを訊ねた。
「あの子、成仏できたと思う?」
頬に物言いたげな視線を感じながら、さらに続けた。
「俺に憑いてたわけじゃなくて、理沙に危険が迫っていることを、教えてくれていたんだよね」
「そうですね」
「……成仏できたと思う?」
「そのうちするでしょう。少なくとも、彼女が地上に留まっている気掛かりの一つは、陽一が解決したと思いますよ」
ミラは穏やかな声で答えた。
「……俺さ、あの子のこと、最初は怖いって思っちゃったんだよね。助けてくれたのに……なんか、悪いことしちゃったな」
項垂れる陽一の髪を、ミラは優しく撫でた。
「そんなことありませんよ。彼女は、感謝していると思いますよ」
「……そうかなぁ」
「田中成美が遺体の場所を自供しましたよ。じきに家族に引き渡されて、然るべき作法で弔ってもらえるでしょう」
陽一は目を丸くして、ミラを見た。
「そうなの? あの子の遺体も?」
「ええ、同じ場所に埋められているそうです。群馬県の山奥に」
「なんで知っているの?」
「オデュッセロからの報告です。彼には事後処理を任せてありますから」
「そう……」
不安そうな陽一を見て、ミラは提案した。
「見にいってみますか?」
「……いいの?」
「お安い御用です」
ミラは陽一を手を引いて立たせると、ぎゅっと抱きしめた。一瞬の浮遊感があり、気がつけば、白い冬景色のなかにいた。
「えっ……」
声にだした陽一は、慌てて口を手でふさいだ。周囲に、警察関係者が大勢いたのだ。
「彼らに僕たちの姿は見えていないし、声も聴こえませんよ」
ミラの言葉に陽一は安堵したが、心臓は烈しく動悸している。誰にも注目されていないとはいえ、明らかに一般人は立ち入り禁止区域だ。
粉雪の舞うなか、防寒具に身を包んだ捜査員たちが懸命に捜索を続けている。
その様子を、陽一はじっと見ていた。
吐く息は白いのに寒いと感じないのは、ミラが傍にいるからだろう。無意識に温めようとしてくれているのかもしれない。彼の肌からたちのぼる熱と香りに、意識を奪われる。
ブルーシートのかけられた担架が運びだされるのを見て、陽一は慌てて手をあわせ、黙祷を捧げた。
「殺害された少女たちです。遺体は見えないよう配慮されていますね」
ミラの声は落ち着いていて、降り積もる雪のように
上空を飛ぶヘリコプターの駆動音が聴こえる。捜査の様子を撮影しているのだろう。
“ありがとう”
はっとして視線を彷徨わせると、雪の木立の傍に、少女がいた。
最初に見たときと違って、昏い翳りはなく、清らかな輝きを帯びている。
「こちらこそ、ありがとう……彩音ちゃんのおかげで、妹を助けることができたよ」
名前を呼ぶと、少女は嬉しそうに笑って頷いた。きらきらと光に透けていき、自然に溶けるようにして消えた。
陽一の目頭が燃えるように熱くなった。堪える間もなく、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「陽一?」
「あの子、死んじゃったんだね」
一瞬の間をおいて、陽一は続けた。
「理沙と同い年なんだよ……あんなに小さい子が、こんな、寂しい場所に埋められて、なんでっ……」
ミラは陽一を抱き寄せて、頭を撫でた。陽一も胸に顔を埋めて、縋りついた。犯人は十年も隣の家に住んでいたのに、まるで気がつかなかった。何も知らないで、呑気に過ごしていた。もっと早く異変に気がついていれば、止めることができたかもしれない。助けてあげられたかもしれないのに!
次から次へと心に湧きおこる想い、
「陽一……」
大きな手が優しく背中を撫でてくれる。
暖かい腕のなかで慰めを貪っていると、ふと人の気配が途絶えたことに気がついた。
不思議に思って顔をあげると、どうしたことか、辺りは真っ暗だった。
「えっ……」
警察はもう撤収したのだろうか?
驚く陽一を宥めるように、抱きしめるミラの腕に力がこめられた。
「少し移動しただけです。空を見てごらん」
ミラにいわれて、陽一は顔をあげた。
細い三日月と、
「すごい……」
思わず囁き声が漏れた。
空を横切っているのは、本物の天の川だ。
全銀河系が、今、目の前にある。何万、何億という星。宇宙にある無数の星が、煌めいている。
圧倒的な星の量、落ちてきそうな星の厚みに、ぞくっとする。山中先生のいった通りだった。落ちてこんばかりの星というものは、美しくも恐ろしい。
自分のちっぽけさを感じるからだろうか?
天空には、陽一の知る世界よりも、はるかにたくさんの世界がある。宇宙の広さに比べたら、陽一なんて砂粒よりもちっぽけな存在だ。
「ここは、彼女たちが埋められていた場所の近くですよ。山奥だから人はいないけれど、空気は澄んでいて、星はこんなに綺麗に見えるんです。悪魔の僕がいうのも変ですけど、とても清涼な場所ですよ。少女たちの哀しみも、ここの空気に癒されたのでしょう」
「……そう、なのかな……」
「あの子も、じきに
「……うん……うん……っ」
陽一は涙をぬぐいながら、少し笑った。来世ではどうか幸せに長生きしてほしい。
「少しだけ空を飛んでみませんか? ちょっとしたサプライズがあるんです」
ミラの言葉に、陽一はきょとんとした。涙を手で押しぬぐい、
「空を飛ぶって?」
「そのままの意味ですよ。僕と一緒に、空を飛んでみませんか?」
ミラは陽一の瞳を覗きこみ、頭をさげた。キスこそしないけれど、くちびるが触れそうな距離だ。
「陽一をこの腕に抱いて、夜空を飛んでみたい……いいでしょう?」
吐息が触れて、陽一は震えた。少年めいた高揚感、空への憧れが高まって渦をまく。今、ミラの手をとれば、きっと素晴らしい世界に連れていってくれる。
「判った」
さし伸べられた手を陽一がとると、ミラはほほえんだ。
「ぅわっ、浮いた!」
つま先からふわりと浮きあがり、地面が引き遠ざかっていく。彼に全身を預けなくても、手に触れてさえいれば、無重力になれるようだ。
「大丈夫、離さないから。怖がらないで」
「怖くないっ、すごい!」
上空からみおろす夜の街は、きらきら宝石を鏤めたみたいに輝いている。
感覚という感覚で夜を味わう。
雲のうえにでると、ミラの魔力で空気抵抗は減殺されて、心地よい風のそよぎを感じるばかりだった。
細い三日月と、満天の星は銀色の小さな欠片になって、雨のように降り注いでくるみたいだ。
見惚れる陽一に、ミラは囁いた。
「気に入った?」
「うん……すごい……」
「宇宙にもいけますよ」
「まさか」
冗談だと思ったけれど、自信に満ちたミラの表情を見て、本気なのだと悟った。
「マジで?」
「マジです。ミルコメダス銀河まで人間の尺で二五四万光年。僕なら瞬きする間にいけます」
「いや、でも、宇宙って真空でしょ? 死ぬんじゃ?」
ミラはくちの端をひょいとあげて笑った。
「どうということはありません。僕は悪魔ですから。いってみますか?」
菫色の瞳が悪戯っぽく煌めいた。いくと答えれば、きっと彼は本当に連れていってくれるのだろう。幻想物語のような星間飛行の旅に。
「う、うーん……興味はあるけど……やめておく。さすがに怖いし」
「そうですか?」
「うん、こうして空を飛ぶだけで十分。ありがとう、ミラ」
屈託のない笑みを見て、ミラは腕をまきとるようにして陽一を引き寄せた。
「わ、何?」
陽一は慌ててミラの胸に手をついた。宙に浮いている状態で予想外の動きをされると、色々な意味でドキドキする。
「かわいいね、陽一」
ミラは愛おしそうに囁いた。
「!?」
陽一は、ぶわっと顔が赤くなるのを感じた。
「お安い御用ですよ、陽一。僕と一緒にいれば、いつだって、どこにだって連れていってあげます」
「……うん」
ゆっくり飛行しながら、陽一もミラの背中にそっと腕をまわした。
「走るときの高揚感とは違うかもしれませんが、空を飛ぶのもなかなか良いでしょう?」
どこか誇らしげにいうミラに、陽一はほほえんだ。なかなか、なんてものじゃない。すごく良い。
「最高の気分だよ」
陽一が抱擁をほどこうとすると、ミラは笑った。
「僕の手を離しちゃだめだよ」
「うん、でも動けないし。そろそろ帰ろうよ」
ミラは片方の手を繋いだまま、陽一の躰を離した。ふたりで空を泳ぐように飛行しながら、その速さはぐんぐんあがっていき、眼下の景色は凄まじい速さで流れていく。
元の速さに戻ったとき、あまりのギャップに世界が止まったように感じられた。
「すげー、江戸川が見える!」
あっという間に地元に戻ってきた。少しずつ高度をさげるうちに、学校や自宅が見えてきた。
「……ん? ミラの家、変わった?」
陽一は頸を傾げた。ミラの家の外観が、遊びにきたときと変わっている。
その質問には答えず、ミラは、ゆっくり家の前に着地すると、
「サプラーイズ☆」
悪戯が成功したような顔で笑った。
「は、えぇッ!?」
「驚きました? リビングの扉は別荘に繋げたままですけれど、ちゃんと新築ですよ」
「行動早すぎだろ!」
「陽一に喜んでほしくて」
玄関前におろしてもらった陽一は、ミラを仰ぎ見て、苦笑気味に笑った。
「も~、でたらめすぎるでしょー。でもありがとう、理沙のことも、今日も……落ちこむ暇もないっていうか……なんか、ミラのおかげで元気でたわ」
「良かった」
そういって、ミラは目を細めて陽一を見下ろすと、顔をさげて、くちびるに触れるだけのキスをした。
「愛している、かわいい僕の陽一、僕だけの星。今夜は穏やかな眠りが訪れますように……ゆっくり休んでね」
陽一は、自分の躰の奥で輝く暖かな光を感じた。光は太陽の
照れて言葉に詰まる陽一を見て、ミラはくすっと笑った。
「お休みなさい、また明日」
「……お休み」
陽一は照れ笑いを浮かべつつ、玄関の内門を閉めた。ミラと同じ気持ちなのに、彼のように素直に言葉にすることができない。
扉をあけて家のなかに入り、しめる際に振りかえって、かける言葉を躊躇い……結局、小さく手を振ってから扉をしめた。