HALEGAIA
7章:
ミラは約束通り、陽一を家まで送り届けてくれた。
日暮れは色濃く、空は殆ど藍色に染まっている。
「時間って巻き戻ったの? 進んだの?」
自宅の玄関前で、陽一はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
「一八時二八分。学校から徒歩で帰宅した場合の時刻にあわせました。鮫島たちなら、校門前で腰を抜かしてぽかんとしていますよ」
「大丈夫なの、それ? ……怪我とか」
「無傷ですよ。僕に追い払われた記憶と、恐怖心は残してあるので、今後は不用意に近付いてこないでしょう」
「ならいいけど……」
陽一はスマホでカレンダーを確認した。
「今日って月曜日なんだよなぁ……体感的には三日くらい経っているのに……一週間を長く感じる」
憂鬱だ。地球の順行時間線上にいるのだとしても、やはり魔界 から戻ると、精神的に時間ギャップを感じる。
「週末まで飛ばしてあげましょうか?」
お茶でも飲む? といった気軽な口調でミラがいった。
陽一は返事に詰まってしまう。ミラが万能なことは判っているつもりだが、度肝を抜かれずにはいられない。空想の産物であるタイムマシーンを、彼なら実現できてしまうのだ。
「いいよ。そんなことしたら、試験勉強する時間がなくなっちゃう」
来週はもう期末試験だ。憂鬱すぎる。でも仕方がない、これが学生ってもんだ。
それからの一週間、うんざりするほど勉強漬けだった。
試験週間で部活も休みのため、陽一を含め、ほかの陸上部員も勉強に集中した。陽一は特に赤点を取った場合、陸上合同練習に参加できない可能性があるため、本気で勉強した。
その甲斐もあって、陽一は無事に試験をクリアした。ミラに至っては満点である。
地獄の試験週間が終わったので、ミラと約束した通り、錦糸町の屋台ラーメンにリベンジした。
塩ラーメンは評判通りの美味しさで、陽一もミラも大満足だった。帰りにゲームセンターに寄り道してプリクラを撮ると、ミラは大喜びして魔剣ベムブリンガムの鞘に貼ろうとするので、陽一は慌てて止めた。そんなものを貼ったら魔王の威厳が台無しだ。
一二月一二日。午後一三時。
江戸川区陸上競技場。競技大会も行われる本格的なスポーツ施設で、今日は一〇〇から四〇〇(メートル)までの選抜された短距離走者 のための合同練習として開放されている。
午前早退した陽一とミラが競技場に到着すると、すでに他校の陸上部員が集まっていた。男子が多いが、ちらほら女子もいる。
男子はいずれも大会の常連ばかり、関東決勝戦みたいな顔ぶれだ。実際、今日は練習とはいえ、一〇〇メートル走測定と上位五名による短距離走もあるのだ。
「晴れてよかったな!」
陽一はミラに笑いかけた。ミラも目を細めて頷いている。
雲一つない秋晴れの青空。グラウンドに吹く風が気持ちいい。
広々としたグリーンと一直線に伸びた白線を見ると、心臓が高鳴る。わくわくとした緊張感がとまらない。
「遠藤!」
ぱっと陽一は振り向いた。
「橋岡! 久しぶり」
見知った顔を見て、陽一は笑顔でいった。橋岡慎吾。陽一と同じ一年生のスプリンターで、陸上競技の強豪校である四宮学園高校の陸上選手だ。
彼は一八〇センチの身長に恵まれた、爆発的初速を誇るランナーで、一年生にして夏の全国高校総体、いわゆるインターハイ出場、秋の新人戦では関東大会決勝戦に出場している。漫画の主人公みたいな男だ。文句なしに、東京都を代表するといっても過言ではないトップ・スプリンターだろう。
ちょっと蛙みたいな顔をしているが、その笑顔はすごく魅力的で、見ているだけで好感が持てる。男子にも女子にも好かれるタイプだ。
「おいおい、菖蒲コー陸上部エース、すっかり有名人じゃん! 文化祭の動画見たぞ~~っ」
ははは、と陽一は苦笑い。隣に並んだミラを、陽一は見上げた。
「有名なのは俺じゃなくて、ミラだよ」
ミラは、挑戦的な笑みを橋岡に向けた。
「お前が陽一のライバル?」
「えっ? はは、そうだね。中学の頃からライバルだよ。大会でいつも戦ってる」
橋岡が照れながら答えると、へぇ、とミラは冷ややかな笑みを浮かべた。長身の橋岡を威圧的に見下ろし、
「僕は、陽一のソウルメイトです。ちっぽけなお前の魂と違って僕は、この先ずっと、陽一が死んだあとも陽一の隣にいるから。お前の出番なんか今だけですよ」
きょとんとする橋岡と、謎のマウントをとるミラの間に、陽一は割って入った。
「こら、失礼だろう! 橋岡は陸上仲間だよ。ここにいるの全員そうなんだから、威嚇するな!」
橋岡は、慌てふためく陽一と、ふてぶてしい面のミラを交互に見比べて、ぷぷっと笑った。
「遠藤、魔王様 とソウルメイトなの? 羨ましいな、うちの陸部 は恋愛禁止なんだぜ」
「いや、えっと……」
戸惑う陽一に構わず、橋岡は憧憬の眼差しでミラを見た。
「うわ、なんか緊張しちゃうな。一年だよね? 動画で観るよりずっとかっこいいね」
そう思うのは橋岡だけではなく、ちょっと離れたところで女の子たちが騒いでいる。
「魔王様!! 本物やっばい!!!」
「かっこいいっ」
今日は関係者以外立ち入り禁止のはずだが、妙に人が多い。ミラ目的できている人が紛れているのだろう。なかには堂々とスマホを向けて写真を撮っている人もいる。
(大会でもないのに、すげぇな……観客がいる練習って初めてだ)
自分が注目されているわけでもないのに、そわそわする。当の本人はこんなに飄々 としているのに。
全く、何をしても絵になる男だ。ジャージ姿で荷運びしていても、細々とした机作業をしていても、ただ立っているだけでも眩い光を放っている。
まるでアイドル。或いはダース・ベイダーかヴォルデモートかもしれない。理力 に闇の魔力で、片っ端から人々を虜 にしている。
他校の女子マネージャーも完全に浮足立っているが、観客席から歓声をあげている女子よりは冷静だった。さりげなく女性としての魅力をアピールしようとしつつ、仕事はこなしている。というか、ちょっとピリピリしている。騒ぐだけの女子が気に障るのだろう。
しかし煩かった観客席も、練習が始まると静かになった。
陽一は灰色のTシャツと短パン姿で、黒のインナーとスポーツスパッツを履いているが、それでも空気を冷たく感じた。
「しっかりほぐせよー」
グラウンドに野太い声が響く。進道寺伸之、三六歳。サングラスをした強面で、熊みたいな体格をした男だ。橋岡のいる陸上強豪校のトレーナーだが、今日は他校の生徒にも柔軟などのアドバイスをしている。
彼が陽一の前にきたとき、陽一は緊張で手に汗がにじむのを感じた。
「遠藤君、タイムは伸びた?」
強面がニッと笑う。陽一は橋岡と仲が良いので、他の生徒より親しげに声をかけてくれる。
「はい、一〇秒台はだせるようになってきました。でも、一〇秒前半になかなか」
「ちょっと触るよ」
「はい」
進道寺が陽一の脚に触れる瞬間、ミラは冷ややかな空気を纏った。すかさず陽一が睨みつける。重苦しい威圧に負けじと睨み返すと、ミラは不服げに視線を伏せた。
悪寒が走ったような顔をしていた進道寺は、気を取り直すように、陽一の大腿に掌を押し当てた。
「うん、理想的なハムストリングだね。左の大腿四頭筋がちょっと張ってるかな。ケアは毎日している?」
「はい、練習が終わった後と、寝る前に軽くストレッチしています」
「続けるといい。一年のうちはまだ躰ができてないから、無理はしないようにね」
「はい!」
「いいね。うん、真面目に走ってることがわかるよ。いい脚だ」
「ありがとうございます!」
陽一は嬉しくて笑顔になる。と、顔に影が射す。スッ……と隣にミラが屈みこんだのだ。
「セクハラですか? 陽一のことは僕が見るので、どうぞ他の選手のところへいってください」
「こら、ミラ!」
進道寺はあっけにとられた顔をしたが、すぐに破顔した。
「噂のイケメンだね。驚いた、本当にイケメンだ。マネージャーなんだよね? 走力ありそうだけど、君は走らないの?」
「僕がその気になれば、世界記録更新ですよ。人類には決して破れない記録です。そんなことをしたら、真面目に練習している世界中の陸上選手がかわいそうでしょう?」
何その上から目線。
陽一はドン引きだが、進道寺は声をあげて笑った。ウケているからまだいいが、際どすぎる。
「ミラ、人間として 答えられないなら、控えなさい」
普段ならこういえば引きさがるミラだが、今日は不服げな視線をよこして言葉を続けた。
「陽一はまだ肉体的潜在能力の全てを引きだせていないんです。陽一が望むなら、こんな 高校設備のトレーニングではなく、肉体をつくる最新鋭のトレーニング施設を用意しますよ? もちろん人間の技術範囲で。肉体革命を起こしてみますか?」
「黙りなさい。身の丈にあった訓練で満足しています」
陽一はきっぱり告げた後、びっくりしている進道寺を見て、ごまかし笑いを浮かべた。
「すみません、失礼な奴で。見てくれて、ありがとうございました」
「いいさ、頑張れよ!」
「はい!」
気のいい進道寺はニカッと笑ってくれた。立ちあがり、のしのしと他の選手のところへ歩いていく背中を、ミラが目で追っている。どこか悪意を孕んだ視線を断ち切るように、陽一は、努めて明るい声で話しかけた。
「ミラ、柔軟手伝ってくれる?」
ミラは黙って頷いた。表情からは何を考えているのか読み取れなかったが、手つきは優しく丁寧だ。陽一は言葉をかけようか迷ったが、やめた。今日はもうずっと走ることに専念したい。こんな絶好の機会、そうそうないのだから。
一時間半に及ぶ入念な体操のあと、ハードル・ウォーク、一〇〇〇メートルのジョグ。本気で走るわけではないが、ラスト一〇〇からはフルスピードで走る。いきなりペースを落とすと負担かかるので、ゆっくりゆっくりペースを落としていく。
そうして十分にウォーミングアップしてから、ひとりひとり計測が始まった。
自分の測定が終わった選手は、各々ストレッチやトレーニングメニューをこなしている。雑談している選手はひとりもいない。皆真剣な表情で躰を動かしていた。
スタート合図と計測は、各校のマネージャーが分担して行い、陽一の計測はミラが担当した。
出番が近づいてくると、陽一はアップシューズを脱いで専用のスパイクに履きかえた。
追い風は許容数値内。晴天。オールウェザー(全天候対応)のタータンの走路 。絶好の測定日和だ。躰も十分に温まっている。多少の緊張はあるものの、コンディションは悪くない。
思いきり、全力で走った。
一〇・八八。
自己記録更新の瞬間は嬉しかったが、その後、橋岡が一〇・三八という今日一の記録をだすと、ショックを受けた。
一〇秒前半は陽一の目標だ。新人戦の関東決勝、橋岡のタイムは一〇・四二だったはず……そこから大して時間は経っていないのに、もう、自己記録更新したのか。
橋岡を称賛する一方で、悔しさを覚えずにはいられなかった。
ちょっと放心していたのかもしれない。気づけば隣にミラがいて、脚のケアをするからと手を引かれるまま、トラックの隅に寄っていた。
日暮れは色濃く、空は殆ど藍色に染まっている。
「時間って巻き戻ったの? 進んだの?」
自宅の玄関前で、陽一はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
「一八時二八分。学校から徒歩で帰宅した場合の時刻にあわせました。鮫島たちなら、校門前で腰を抜かしてぽかんとしていますよ」
「大丈夫なの、それ? ……怪我とか」
「無傷ですよ。僕に追い払われた記憶と、恐怖心は残してあるので、今後は不用意に近付いてこないでしょう」
「ならいいけど……」
陽一はスマホでカレンダーを確認した。
「今日って月曜日なんだよなぁ……体感的には三日くらい経っているのに……一週間を長く感じる」
憂鬱だ。地球の順行時間線上にいるのだとしても、やはり
「週末まで飛ばしてあげましょうか?」
お茶でも飲む? といった気軽な口調でミラがいった。
陽一は返事に詰まってしまう。ミラが万能なことは判っているつもりだが、度肝を抜かれずにはいられない。空想の産物であるタイムマシーンを、彼なら実現できてしまうのだ。
「いいよ。そんなことしたら、試験勉強する時間がなくなっちゃう」
来週はもう期末試験だ。憂鬱すぎる。でも仕方がない、これが学生ってもんだ。
それからの一週間、うんざりするほど勉強漬けだった。
試験週間で部活も休みのため、陽一を含め、ほかの陸上部員も勉強に集中した。陽一は特に赤点を取った場合、陸上合同練習に参加できない可能性があるため、本気で勉強した。
その甲斐もあって、陽一は無事に試験をクリアした。ミラに至っては満点である。
地獄の試験週間が終わったので、ミラと約束した通り、錦糸町の屋台ラーメンにリベンジした。
塩ラーメンは評判通りの美味しさで、陽一もミラも大満足だった。帰りにゲームセンターに寄り道してプリクラを撮ると、ミラは大喜びして魔剣ベムブリンガムの鞘に貼ろうとするので、陽一は慌てて止めた。そんなものを貼ったら魔王の威厳が台無しだ。
一二月一二日。午後一三時。
江戸川区陸上競技場。競技大会も行われる本格的なスポーツ施設で、今日は一〇〇から四〇〇(メートル)までの選抜された
午前早退した陽一とミラが競技場に到着すると、すでに他校の陸上部員が集まっていた。男子が多いが、ちらほら女子もいる。
男子はいずれも大会の常連ばかり、関東決勝戦みたいな顔ぶれだ。実際、今日は練習とはいえ、一〇〇メートル走測定と上位五名による短距離走もあるのだ。
「晴れてよかったな!」
陽一はミラに笑いかけた。ミラも目を細めて頷いている。
雲一つない秋晴れの青空。グラウンドに吹く風が気持ちいい。
広々としたグリーンと一直線に伸びた白線を見ると、心臓が高鳴る。わくわくとした緊張感がとまらない。
「遠藤!」
ぱっと陽一は振り向いた。
「橋岡! 久しぶり」
見知った顔を見て、陽一は笑顔でいった。橋岡慎吾。陽一と同じ一年生のスプリンターで、陸上競技の強豪校である四宮学園高校の陸上選手だ。
彼は一八〇センチの身長に恵まれた、爆発的初速を誇るランナーで、一年生にして夏の全国高校総体、いわゆるインターハイ出場、秋の新人戦では関東大会決勝戦に出場している。漫画の主人公みたいな男だ。文句なしに、東京都を代表するといっても過言ではないトップ・スプリンターだろう。
ちょっと蛙みたいな顔をしているが、その笑顔はすごく魅力的で、見ているだけで好感が持てる。男子にも女子にも好かれるタイプだ。
「おいおい、菖蒲コー陸上部エース、すっかり有名人じゃん! 文化祭の動画見たぞ~~っ」
ははは、と陽一は苦笑い。隣に並んだミラを、陽一は見上げた。
「有名なのは俺じゃなくて、ミラだよ」
ミラは、挑戦的な笑みを橋岡に向けた。
「お前が陽一のライバル?」
「えっ? はは、そうだね。中学の頃からライバルだよ。大会でいつも戦ってる」
橋岡が照れながら答えると、へぇ、とミラは冷ややかな笑みを浮かべた。長身の橋岡を威圧的に見下ろし、
「僕は、陽一のソウルメイトです。ちっぽけなお前の魂と違って僕は、この先ずっと、陽一が死んだあとも陽一の隣にいるから。お前の出番なんか今だけですよ」
きょとんとする橋岡と、謎のマウントをとるミラの間に、陽一は割って入った。
「こら、失礼だろう! 橋岡は陸上仲間だよ。ここにいるの全員そうなんだから、威嚇するな!」
橋岡は、慌てふためく陽一と、ふてぶてしい面のミラを交互に見比べて、ぷぷっと笑った。
「遠藤、魔王
「いや、えっと……」
戸惑う陽一に構わず、橋岡は憧憬の眼差しでミラを見た。
「うわ、なんか緊張しちゃうな。一年だよね? 動画で観るよりずっとかっこいいね」
そう思うのは橋岡だけではなく、ちょっと離れたところで女の子たちが騒いでいる。
「魔王様!! 本物やっばい!!!」
「かっこいいっ」
今日は関係者以外立ち入り禁止のはずだが、妙に人が多い。ミラ目的できている人が紛れているのだろう。なかには堂々とスマホを向けて写真を撮っている人もいる。
(大会でもないのに、すげぇな……観客がいる練習って初めてだ)
自分が注目されているわけでもないのに、そわそわする。当の本人はこんなに
全く、何をしても絵になる男だ。ジャージ姿で荷運びしていても、細々とした机作業をしていても、ただ立っているだけでも眩い光を放っている。
まるでアイドル。或いはダース・ベイダーかヴォルデモートかもしれない。
他校の女子マネージャーも完全に浮足立っているが、観客席から歓声をあげている女子よりは冷静だった。さりげなく女性としての魅力をアピールしようとしつつ、仕事はこなしている。というか、ちょっとピリピリしている。騒ぐだけの女子が気に障るのだろう。
しかし煩かった観客席も、練習が始まると静かになった。
陽一は灰色のTシャツと短パン姿で、黒のインナーとスポーツスパッツを履いているが、それでも空気を冷たく感じた。
「しっかりほぐせよー」
グラウンドに野太い声が響く。進道寺伸之、三六歳。サングラスをした強面で、熊みたいな体格をした男だ。橋岡のいる陸上強豪校のトレーナーだが、今日は他校の生徒にも柔軟などのアドバイスをしている。
彼が陽一の前にきたとき、陽一は緊張で手に汗がにじむのを感じた。
「遠藤君、タイムは伸びた?」
強面がニッと笑う。陽一は橋岡と仲が良いので、他の生徒より親しげに声をかけてくれる。
「はい、一〇秒台はだせるようになってきました。でも、一〇秒前半になかなか」
「ちょっと触るよ」
「はい」
進道寺が陽一の脚に触れる瞬間、ミラは冷ややかな空気を纏った。すかさず陽一が睨みつける。重苦しい威圧に負けじと睨み返すと、ミラは不服げに視線を伏せた。
悪寒が走ったような顔をしていた進道寺は、気を取り直すように、陽一の大腿に掌を押し当てた。
「うん、理想的なハムストリングだね。左の大腿四頭筋がちょっと張ってるかな。ケアは毎日している?」
「はい、練習が終わった後と、寝る前に軽くストレッチしています」
「続けるといい。一年のうちはまだ躰ができてないから、無理はしないようにね」
「はい!」
「いいね。うん、真面目に走ってることがわかるよ。いい脚だ」
「ありがとうございます!」
陽一は嬉しくて笑顔になる。と、顔に影が射す。スッ……と隣にミラが屈みこんだのだ。
「セクハラですか? 陽一のことは僕が見るので、どうぞ他の選手のところへいってください」
「こら、ミラ!」
進道寺はあっけにとられた顔をしたが、すぐに破顔した。
「噂のイケメンだね。驚いた、本当にイケメンだ。マネージャーなんだよね? 走力ありそうだけど、君は走らないの?」
「僕がその気になれば、世界記録更新ですよ。人類には決して破れない記録です。そんなことをしたら、真面目に練習している世界中の陸上選手がかわいそうでしょう?」
何その上から目線。
陽一はドン引きだが、進道寺は声をあげて笑った。ウケているからまだいいが、際どすぎる。
「ミラ、
普段ならこういえば引きさがるミラだが、今日は不服げな視線をよこして言葉を続けた。
「陽一はまだ肉体的潜在能力の全てを引きだせていないんです。陽一が望むなら、
「黙りなさい。身の丈にあった訓練で満足しています」
陽一はきっぱり告げた後、びっくりしている進道寺を見て、ごまかし笑いを浮かべた。
「すみません、失礼な奴で。見てくれて、ありがとうございました」
「いいさ、頑張れよ!」
「はい!」
気のいい進道寺はニカッと笑ってくれた。立ちあがり、のしのしと他の選手のところへ歩いていく背中を、ミラが目で追っている。どこか悪意を孕んだ視線を断ち切るように、陽一は、努めて明るい声で話しかけた。
「ミラ、柔軟手伝ってくれる?」
ミラは黙って頷いた。表情からは何を考えているのか読み取れなかったが、手つきは優しく丁寧だ。陽一は言葉をかけようか迷ったが、やめた。今日はもうずっと走ることに専念したい。こんな絶好の機会、そうそうないのだから。
一時間半に及ぶ入念な体操のあと、ハードル・ウォーク、一〇〇〇メートルのジョグ。本気で走るわけではないが、ラスト一〇〇からはフルスピードで走る。いきなりペースを落とすと負担かかるので、ゆっくりゆっくりペースを落としていく。
そうして十分にウォーミングアップしてから、ひとりひとり計測が始まった。
自分の測定が終わった選手は、各々ストレッチやトレーニングメニューをこなしている。雑談している選手はひとりもいない。皆真剣な表情で躰を動かしていた。
スタート合図と計測は、各校のマネージャーが分担して行い、陽一の計測はミラが担当した。
出番が近づいてくると、陽一はアップシューズを脱いで専用のスパイクに履きかえた。
追い風は許容数値内。晴天。オールウェザー(全天候対応)のタータンの
思いきり、全力で走った。
一〇・八八。
自己記録更新の瞬間は嬉しかったが、その後、橋岡が一〇・三八という今日一の記録をだすと、ショックを受けた。
一〇秒前半は陽一の目標だ。新人戦の関東決勝、橋岡のタイムは一〇・四二だったはず……そこから大して時間は経っていないのに、もう、自己記録更新したのか。
橋岡を称賛する一方で、悔しさを覚えずにはいられなかった。
ちょっと放心していたのかもしれない。気づけば隣にミラがいて、脚のケアをするからと手を引かれるまま、トラックの隅に寄っていた。