HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 5 -

 楽園コペリオンの夕べ。
 二つの月の放つ優しい夕べの光が、鳥籠を照らしていた。海は黄金色の葡萄酒のように輝き、水平線まできらきらと光の道を伸ばしている。
 詩のように美しい光景だが、陽一は、目を奪われることもなく、懶惰らんだに意気沈んでいた。先ほどまで傍にいたミラが、いつの間にかいないことにも気がついていない。
 陽一は無言の殻に閉じこもったままだが、ミラの方は様子が変わってきていた。文句もいわずに、対価を求めるでもなく、丁寧に陽一の世話をする。それも嫌々ではなく、労りに満ちた看護者のような、およそ悪魔らしからぬ細やかさで。
 彼の変化を、陽一も肌に感じてはいたが、感銘を受けることはなかった。むしろ反感を抱いていた。
 今度は一体どういう気まぐれなのだろう? 贖罪しょくざいのつもりなのだろうか? 或いは、そうと見せかけた児戯の延長なのだろうか?
 穿った見方をしつつも、自堕落な、まともに飲食すらしようとしない陽一が、未だに生きているのは、ミラによる悪魔的秘儀なのだろうということは、判っていた。
 現実と夢幻の間を彷徨する時、ミラの気配を感じることがある。温かい汁を与えられ、躰を清められ、寝かしつけられ……不思議なことに、仕草の一つ一つに慈しみを感じていた。
 もしかしたら、今のミラなら、陽一の言葉が届くのかもしれない。
 だが、彼が犯した容赦のない非道も、陽一にしたことも既に起こってしまったことで、今更なかったことにはできない。
 せめて、ジュピターのことがなければ、結果は変わっていたのだろうか?
 ――判らない。今となっては未来永劫判らない。
 途方もない想いに耽っていると、異様な雰囲気を察知して目を瞬いた。扉を振り向いて、思わずぎくりとした。
 ジュピターだ。
 始めて見た時と同じ姿の、美しい聖霊が鳥籠の向こうに佇んでいる。ミラの業火に焼かれたはずの皮膚は、綺麗に再生しており、記憶にあるがままの、艶冶えんやとした美貌を具えていた。
「ジュピターさん……?」
 陽一は、信じられない思いでのろのろと立ちあがった。扉の傍へ寄って、宙に佇むジュピターを仰ぐ。
「こんばんは、陽一」
 ジュピターは、口元に謎めいた微笑を浮かべた。陽一は格子を掴んで、美貌を凝視した。
「えっ……本当にジュピターさん? 無事だったんですか!?」
「聖霊に死の概念はありません。わたくしが消失しても、次のわたくしが役目を負います。管轄する地上が健在のうちは、その再生も早いですから」
 陽一は訝しんだ。つまり、目の前にいるジュピターは、陽一の知っているジュピターとは違うといいたいのだろうか? 外見は全く同じに見えるから混乱する。
「そう怯えることはないでしょう。貴方には偉大な御方の加護があるのですから」
 偉大な御方というのが、ミラを指しているのか、或いは神なのか、陽一には判らなかった。
「貴方への――は、三千世界へ堕ちてもかわりませんでしたね……」
 うまく聞き取れずに、陽一の顔が強張る。貴方への……寵愛といったのだろうか? しかし、訊き返す前にジュピターが続けた。
「何故貴方だけが、特別なのでしょうか?」
「……そんなの、俺だって知りたい」
 特別の指標は判らないが、執着はされていると思う。嬉しいかどうかは別として――そんな不満を察知したように、ジュピターの表情から、世間話のときのような柔らかさが消えた。
「たかが人間ではありませんか。塵芥じんかいも同然ではありませんか……何故の寵愛ぞ」
 突き放したような、人が変わったような険しい声音だった。嫉妬を孕んだ勁烈けいれつな眼差しで陽一を射すくめる。
 陽一は首を振りたて、
「違う、寵愛なんかじゃない。玩具にされているだけだ」
「玩具? 玩具ですって? くふふふふふ」
 物狂いのかちどきのような、狂気の哄笑が轟いた。陽一を睨みつける翡翠の瞳には、形容しがたい色が浮かんでいる。
「なら、かわってさしあげます」
 慈悲を与える天使めいた口調だが、陽一の恐怖はいっそう掻き立てられた。
「嫌なのでしょう? 玩具にされるのが」
「そりゃ……嫌だけど」
 鋭い閃光が翡翠のひとみに光った。
「なら、かわってさしあげます。この扉を開けてください」
 え、と陽一は躊躇する。
「かわってさしあげますから、扉を開けてください」
 柔らかな声なのに、頷くこと以外を拒むような、白刃はくじんの響きがあった。
 恐怖して硬直する陽一に、かわってくださらないのですか? 重ねてジュピターが訊ねた。
「“かわって”」
 その瞬間、陽一は神妙不可思議な幻視に囚われた。
 視界に火の粉が舞って、火焔の勢いに撒き散らされたように、鳥籠も、ジュピターも視えなくなった。
 あの時の炎の熱さ、凄まじい痛哭つうこく、胸の悪くような肉が焼ける匂い、かわって、という音列が耳朶の奥に蘇った。

 かわってかわってかわってかわってかわってかわって
 あなたになりたい。あなたにかわりたい。あなたになりたい。かわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわって……

 呼吸が止まりそうだった。
 呪詛のような音なき声が、延々と耳の奥でこだましている。
 そうか――あの時ジュピターは、火に焙られる立場をかわって欲しいといったのではない。陽一そのものに、なりかわりたいといったのだ。
 そう思った瞬間、脳みそに両手を突っこまれ、かき混ぜこねられているような、気色の悪い混沌に襲われた。
 言霊ことだまに憑かれた陽一は、慄然りつぜんとしながら、扉を開けてしまった。
 我に返った時には、遅かった。
 次の瞬間、ジュピターは勢いよくなかに入ってきた。
 細腕とは思えぬ力で、陽一の腕を掴む。神妙なる加護により、陽一を害なす者の皮膚を焼いたが、ジュピターは忌々しげに呻いたものの、手を離そうとはしなかった。
「“かわって”」
 美しい翠瞳すいとうに、狂気が揺れている。
 聖霊はよっぽどそうしようと試みたが、金色の膜に包まれた陽一を、浸食することはできなかった。
「口惜しや」
 表情を翳らせ、
「かわれないのなら――」
 突然、陽一の腕を掴んで、そのまま鳥籠の外へ引っぱりだそうとする。
「放せっ!」
 陽一は無我夢中で暴れたが、ジュピターの細腕はびくともしない。煌めく黄金の威により、聖霊の手は燃えあがったが、苦痛を叫びながらもジュピターは離そうとしなかった。ついに陽一は、鳥籠のそとへ放りだされた。
「うぁっ!!」
 悲鳴は風にかき消された。このまま地面に激突するかと思われたが、そうはならなかった。どうしたことか、落下速度は緩やかになり、まるでしゃぼん玉が風に戯れているかのように、不可視の膜に包まれて、ゆっくり、ゆっくり、森へとおりていった。
(何だこれ? どうなってるんだ……?)
 陽一はしきりに辺りを眺め回した。一瞬、ミラがきてくれたのかと思ったが、そうではなかった。だとすれば、これも神の加護なのだろうか?
 しかし、安堵も束の間、森へ降りた途端に、ジュピターが立ちふさがった。陽一は全神経を研ぎ澄まして、ジュピターが次にとる行動を見極めようとしたが、その冷静さはあっけなく砕け散った。
「忌まわしい人間だこと」
 おぞましい邪心の発露に、ジュピターの美しい人形ひとがたが、ずるりと崩れた。真珠のような肌は見るも無残に溶けて垂れさがり、まるで食屍鬼グールのように糜爛びらんしていく。
(う、わ……ジュピターさん……っ)
 恐怖のあまり、陽一は片手で口を覆って、立ち竦むことしかできない。
「お、お前のような、人間風情……魔王さまの……ちょ……ちょう……愛を……ををを……」
 肉塊と変わり果てたジュピターは、口を大きくあけて、異様に長い赤い舌をだらりとこぼし、壊れた蓄音機のように、奇声と濁音をこぼしている。
 これが、あのジュピターなのかと我が目を疑う。落ちくぼんだ眼窩がんかの奥から、翡翠に輝く瞳だけが、美しい聖霊の名残だった。
「よ、ヨウイチィィ……」
 地獄の裂け目から響いたかのような声に、陽一は心の底から震えあがった。
 開けてはいけないパンドラの箱を、開けてしまったかのように、こめかみが恐怖で緊張し、ぴくぴくしている。口のなかにまで恐怖の味が拡がっていき、刻印スティグマを使おうにも、舌が縮こまっていて声を発せそうにない。
 いけない。早く逃げなくては――陽一は背を向けて、脱兎のごとく駆けだした。
「よ、ヨウイチィィ……ッ」
 ジュピターが猛然と後ろを追いかけてきた。