HALEGAIA
2章:
ミラは、何かに執着したことはなかった。
徳高い恬淡 というわけではなく、永遠永久 に続いていく生命の代償なのか、何に対してもそれほどの興味を持てないのだ。
結構な労力をかけて築いた楽園でさえ、暇つぶしの一環に過ぎず、そろそろ壊そうかと考えていたくらいである。
けれども、陽一には憑かれていた。
彼は、ふとした拍子にミラの思考に現われる。何の脈絡もなく、意識が陽一へと向かうのだ。同胞を召喚している時に、大炎に包まれる都市を見おろしている時に、魔界 に霊気を巡らせている時に。
脳裡に浮かぶ陽一は、あの日、軍馬に跨って楽園 を翔けたあとで見せた、満面の笑みを浮かべていることが多い。
実際の陽一は、ここしばらくふさぎこんでおり、自分の殻に閉じこもっているのだが……彼が元気をなくすのはしばしばだが、今回は長いように思う。
表情のない、抜け殻のような姿を見ていると、無償にあの煌めくような笑顔を見たいと思うから不思議だった。
人間の笑顔を見たいという感情に、ミラは、驚かずにはいられない。なにせ笑っている人間を見れば、容赦なく痛めつけたくなるのが常だった。
なぜ、陽一は特別なのか?
理由は不明だが、魔界 に囚われていることが影響しているのだろう。三千世界に堕ちれば、陽一も、その辺の人間と大差ないはずである――恐らく。
しかし、今のところは見ていて飽きない。
鬱陶しくない程度の媚と保身、物怖じしない気質のバランスが絶妙で、どう揺さぶっても、楽しい反応を見せてくれる。
手放すには惜しいから、長く飼うためにも、彼が塞ぎこんでいる時は注意が必要だ。
そういう時の陽一は、進んで刻印 を使おうとしないので、こちらから様子を見にいかねばならない。
そんなわけで、ミラの方から鳥籠に足を運んだ。
陽一は起きて椅子に座っていたが、ミラに視線を寄越そうとはしなかった。
「こんにちは、陽一。ご機嫌いかがですか?」
ミラは明るくいったが、陽一は格子の外を眺めている。彼の興味を引きたくて、ミラは、銀盆をさしだした。
「お土産ですよ」
最初、陽一の目は冷めていた。
またか、と内心で食傷気味に呟いていた。
先日の件があってから、ミラが陽一の機嫌をとろうとしていることは、陽一にも判っていた。やってくるたびに、こんな風に贈りものを持ってくる。
だが今回は、たとえGibisonのプレミアムSGを見せられらって、なびかないぞ……と、冷静に見ていた陽一だが、ミラが蓋を開くと、思わず目を瞠った。
美味しそうなホールのガトー・オ・ショコラではないか!
「チョコレートは好きですか?」
黒い瞳のなかに輝きが戻るのを見て、ミラは優しく問うた。
「……うん」
今の陽一にとって、甘いお菓子はとても貴重だ。
凝った彫刻の施された銀のスプーンを渡されると、素直に受け取った。小さく切ったケーキを口に運び、思わず、瞑想するように瞳を閉じて唸ってしまう。
OH! Gateau o Chocolat!
甘さと苦さの調和。まろやかな舌触り。苦すぎないカカオの割合がなんとも絶妙だ。
「うっめぇ~……」
これまでに食べたどんなチョコレートケーキよりも美味しい。上品な甘さが躰に沁みわたる気がした。チョコレートの甘さの前には、凍結された感情もとろけてしまうのかもしれない。
至福を噛み締める陽一を、ミラは愉しそうに見ている。二人とも無口なままだったが、その穏やかな沈黙が陽一にはありがたかった。
食べ終えると、目が遭った。
おずおずと陽一が笑みかけると、菫色の視線は、陽一の頬にあるえくぼに動いた。鈍感な陽一でも、どういうわけか、ミラがえくぼに惹きつけられることには気がついていた。
「ミラは食べないの?」
熱っぽい視線に気づかないふりをして、陽一は訊ねた。
「少しもらおうかな」
そういってミラは、スプーンを持つ陽一の手に、自分の手を重ねて、精緻に整った顔を近づける。形の良い唇を開いて、ひとかけらのケーキを頬張った。
「本当だ。美味しいですね」
陽一は真っ赤になった。ぽろっと手からスプーンが落ちて、床に落ちる。カラーン……と響く金属音。
「はい、新しいのをどうぞ」
よく気が利く店員のように、ミラは新しいスプーンを陽一に手渡した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
今の衝撃でチョコレートへの興奮が落ち着き、陽一はスプーンを受け皿の上に置いた。
「……俺なんかの相手をして、楽しい?」
「楽しいですよ」
ミラはにっこりした。
「もう飽きただろう? 他にも鳥籠はたくさんあるんだから、他の奴のところにいけよ」
不意に顎を掴まれ、顔を引き寄せられたので、陽一は瞠った。
「ちょ……んんっ」
文句をいう前に、唇を塞がれた。油断も隙もない――口づけが深まる前に、どうにか身をよじって逃げた。濡れた唇を手の甲で拭いながら、
「いきなり何すんだ!」
下から睨みつけると、二人の間に火花が散った。人を惑わせる、蠱惑の香りが漂う。
「不思議なことに、ちっとも飽きないんですよねぇ……血を飲んでもいいですか?」
「え、嫌だ……」
背徳的な愉悦が蘇り、陽一は肌が粟立つのを感じた。思わず、自分を守るようにして両腕を躰に巻きつけた。一歩、二歩と後ずさりをすれば、空いた距離をミラが詰めた。
「嫌? 痛みはありませんよ。いつも気持ち良いでしょう?」
格子を背に追い詰められ、陽一は、烈しくかぶりを振った。
「嫌なんだよ、もう……あんな風にされるのは……っ」
結局のところ、ミラにとって陽一は、人格ある個人ではなく、一時気ままに構う所有物と同じだ。籠にとじこめて綺麗に身づくろいし、惜しみなく甘やかして、嗜好品を与え、愛玩的に慈しむ。
ペット。喋る玩具。セックスの道具。
悄然 と項垂れる陽一を見て、ミラは思案げな表情を浮かべた。
「そんなに嫌ですか?」
陽一が無言で頷くと、ふっと視界が昏くなった。顔をあげると、空は黄昏に染まり、水平線に黄金色の道が伸びていた。
「……何?」
陽一はミラを見た。
「僕の一番好きな時間帯です。何もしませんから、ここにきて、座ってください」
そういってミラは、自ら席につくと、隣の椅子を引いて陽一を見た。陽一は躊躇ったが、無言の圧に屈して、渋々と椅子に座った。
するとミラは、どこからともなく手燭をとりだし、触れもせずに蝋燭に火を灯した。
神秘の業 を目の当たりにし、図らずも陽一は見とれてしまった。
「これは原始の焔です。そして、僕の象徴でもあります。焔は強大で、何もかも奪うこともできますが、同時に純粋で、安らぎを与えることもできるんですよ」
「……」
陽一は焔をじっと見つめた。
「本当ですよ。そうしてじっと見つめているだけで、感情を一点に集中させる効果があるんです。とても簡単な、自然の魔法です」
陽一は小さく頷いた。
不思議なことに、焔を見つめていると、ここが狭い鳥籠であることを忘れそうになる。揺らめく焔は無限の広がりを生みだし、世界は焔のなかにあるように感じられた。
「火は世界が誕生したときから在る、悠久の流動性をそなえた、不変の力です」
陽一が顔をあげると、ミラは、いつものように淡い笑みを浮かべて、じっと炎を見つめていた。けれど、瞳の光はとても強くて、おいそれと直視できない。
「人間は往々にして、機械的な照明に切り替えていきますが、勿体ないと常々思っていますよ。焔の安らぎを手放してしまうなんて」
まぁ、最後は劫火に包まれて世界は終わるのですけれど、とミラは物騒な言葉をつけ加えたが、陽一は聞き流した。
「悪いようにはしませんから、ここにいなさい。ビショップを見かけたら、連れてきますから」
その声は穏やかで、思いやりすら感じられた。悪魔が人間を不憫に思うことなんてあるのだろうか?
疑問に思うが、陽一は、黙ったまま焔を見つめていた。
揺らめく赫 きを見ていると、疲弊していた心が、不思議と透き通っていくのを感じる……
ミラのいう通り、焔には癒す力があるのかもしれない。見つめていると、散らかっていた感情が一点に集中していく。
「……家に帰りたい」
「判っていますよ」
ミラは優しくいった。
その声には、悪魔らしからぬ誠実さがあり、陽一は反感を抱かなかった。それどころか、希望の火が、再び心に灯るのを感じていた。
徳高い
結構な労力をかけて築いた楽園でさえ、暇つぶしの一環に過ぎず、そろそろ壊そうかと考えていたくらいである。
けれども、陽一には憑かれていた。
彼は、ふとした拍子にミラの思考に現われる。何の脈絡もなく、意識が陽一へと向かうのだ。同胞を召喚している時に、大炎に包まれる都市を見おろしている時に、
脳裡に浮かぶ陽一は、あの日、軍馬に跨って
実際の陽一は、ここしばらくふさぎこんでおり、自分の殻に閉じこもっているのだが……彼が元気をなくすのはしばしばだが、今回は長いように思う。
表情のない、抜け殻のような姿を見ていると、無償にあの煌めくような笑顔を見たいと思うから不思議だった。
人間の笑顔を見たいという感情に、ミラは、驚かずにはいられない。なにせ笑っている人間を見れば、容赦なく痛めつけたくなるのが常だった。
なぜ、陽一は特別なのか?
理由は不明だが、
しかし、今のところは見ていて飽きない。
鬱陶しくない程度の媚と保身、物怖じしない気質のバランスが絶妙で、どう揺さぶっても、楽しい反応を見せてくれる。
手放すには惜しいから、長く飼うためにも、彼が塞ぎこんでいる時は注意が必要だ。
そういう時の陽一は、進んで
そんなわけで、ミラの方から鳥籠に足を運んだ。
陽一は起きて椅子に座っていたが、ミラに視線を寄越そうとはしなかった。
「こんにちは、陽一。ご機嫌いかがですか?」
ミラは明るくいったが、陽一は格子の外を眺めている。彼の興味を引きたくて、ミラは、銀盆をさしだした。
「お土産ですよ」
最初、陽一の目は冷めていた。
またか、と内心で食傷気味に呟いていた。
先日の件があってから、ミラが陽一の機嫌をとろうとしていることは、陽一にも判っていた。やってくるたびに、こんな風に贈りものを持ってくる。
だが今回は、たとえGibisonのプレミアムSGを見せられらって、なびかないぞ……と、冷静に見ていた陽一だが、ミラが蓋を開くと、思わず目を瞠った。
美味しそうなホールのガトー・オ・ショコラではないか!
「チョコレートは好きですか?」
黒い瞳のなかに輝きが戻るのを見て、ミラは優しく問うた。
「……うん」
今の陽一にとって、甘いお菓子はとても貴重だ。
凝った彫刻の施された銀のスプーンを渡されると、素直に受け取った。小さく切ったケーキを口に運び、思わず、瞑想するように瞳を閉じて唸ってしまう。
OH! Gateau o Chocolat!
甘さと苦さの調和。まろやかな舌触り。苦すぎないカカオの割合がなんとも絶妙だ。
「うっめぇ~……」
これまでに食べたどんなチョコレートケーキよりも美味しい。上品な甘さが躰に沁みわたる気がした。チョコレートの甘さの前には、凍結された感情もとろけてしまうのかもしれない。
至福を噛み締める陽一を、ミラは愉しそうに見ている。二人とも無口なままだったが、その穏やかな沈黙が陽一にはありがたかった。
食べ終えると、目が遭った。
おずおずと陽一が笑みかけると、菫色の視線は、陽一の頬にあるえくぼに動いた。鈍感な陽一でも、どういうわけか、ミラがえくぼに惹きつけられることには気がついていた。
「ミラは食べないの?」
熱っぽい視線に気づかないふりをして、陽一は訊ねた。
「少しもらおうかな」
そういってミラは、スプーンを持つ陽一の手に、自分の手を重ねて、精緻に整った顔を近づける。形の良い唇を開いて、ひとかけらのケーキを頬張った。
「本当だ。美味しいですね」
陽一は真っ赤になった。ぽろっと手からスプーンが落ちて、床に落ちる。カラーン……と響く金属音。
「はい、新しいのをどうぞ」
よく気が利く店員のように、ミラは新しいスプーンを陽一に手渡した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
今の衝撃でチョコレートへの興奮が落ち着き、陽一はスプーンを受け皿の上に置いた。
「……俺なんかの相手をして、楽しい?」
「楽しいですよ」
ミラはにっこりした。
「もう飽きただろう? 他にも鳥籠はたくさんあるんだから、他の奴のところにいけよ」
不意に顎を掴まれ、顔を引き寄せられたので、陽一は瞠った。
「ちょ……んんっ」
文句をいう前に、唇を塞がれた。油断も隙もない――口づけが深まる前に、どうにか身をよじって逃げた。濡れた唇を手の甲で拭いながら、
「いきなり何すんだ!」
下から睨みつけると、二人の間に火花が散った。人を惑わせる、蠱惑の香りが漂う。
「不思議なことに、ちっとも飽きないんですよねぇ……血を飲んでもいいですか?」
「え、嫌だ……」
背徳的な愉悦が蘇り、陽一は肌が粟立つのを感じた。思わず、自分を守るようにして両腕を躰に巻きつけた。一歩、二歩と後ずさりをすれば、空いた距離をミラが詰めた。
「嫌? 痛みはありませんよ。いつも気持ち良いでしょう?」
格子を背に追い詰められ、陽一は、烈しくかぶりを振った。
「嫌なんだよ、もう……あんな風にされるのは……っ」
結局のところ、ミラにとって陽一は、人格ある個人ではなく、一時気ままに構う所有物と同じだ。籠にとじこめて綺麗に身づくろいし、惜しみなく甘やかして、嗜好品を与え、愛玩的に慈しむ。
ペット。喋る玩具。セックスの道具。
「そんなに嫌ですか?」
陽一が無言で頷くと、ふっと視界が昏くなった。顔をあげると、空は黄昏に染まり、水平線に黄金色の道が伸びていた。
「……何?」
陽一はミラを見た。
「僕の一番好きな時間帯です。何もしませんから、ここにきて、座ってください」
そういってミラは、自ら席につくと、隣の椅子を引いて陽一を見た。陽一は躊躇ったが、無言の圧に屈して、渋々と椅子に座った。
するとミラは、どこからともなく手燭をとりだし、触れもせずに蝋燭に火を灯した。
神秘の
「これは原始の焔です。そして、僕の象徴でもあります。焔は強大で、何もかも奪うこともできますが、同時に純粋で、安らぎを与えることもできるんですよ」
「……」
陽一は焔をじっと見つめた。
「本当ですよ。そうしてじっと見つめているだけで、感情を一点に集中させる効果があるんです。とても簡単な、自然の魔法です」
陽一は小さく頷いた。
不思議なことに、焔を見つめていると、ここが狭い鳥籠であることを忘れそうになる。揺らめく焔は無限の広がりを生みだし、世界は焔のなかにあるように感じられた。
「火は世界が誕生したときから在る、悠久の流動性をそなえた、不変の力です」
陽一が顔をあげると、ミラは、いつものように淡い笑みを浮かべて、じっと炎を見つめていた。けれど、瞳の光はとても強くて、おいそれと直視できない。
「人間は往々にして、機械的な照明に切り替えていきますが、勿体ないと常々思っていますよ。焔の安らぎを手放してしまうなんて」
まぁ、最後は劫火に包まれて世界は終わるのですけれど、とミラは物騒な言葉をつけ加えたが、陽一は聞き流した。
「悪いようにはしませんから、ここにいなさい。ビショップを見かけたら、連れてきますから」
その声は穏やかで、思いやりすら感じられた。悪魔が人間を不憫に思うことなんてあるのだろうか?
疑問に思うが、陽一は、黙ったまま焔を見つめていた。
揺らめく
ミラのいう通り、焔には癒す力があるのかもしれない。見つめていると、散らかっていた感情が一点に集中していく。
「……家に帰りたい」
「判っていますよ」
ミラは優しくいった。
その声には、悪魔らしからぬ誠実さがあり、陽一は反感を抱かなかった。それどころか、希望の火が、再び心に灯るのを感じていた。