FAの世界
4章:百花繚乱 - 5 -
穏やかな静寂 。
ふたりとも白い単衣を羽織って、手を繋いで、木陰の芝に横たわっていた。木の間からこぼれた陽がきらきらと踊っていて、遠くで小鳥が囀っている。
「……ここにいたら、敵に見つかるんじゃありませんか?」
虹は、煌めく梢を仰ぎ見たまま、隣にいるアーシェルに問いかけた。
「すぐに移動します」
そう答えておきながら、アーシェルは起きあがろうとはしない。穏やかな声音で、言葉を継ぐ。
「ずっと御煌臨 を待ち望んでおりました。そうすればすべてが報われると思っておりました」
虹は自嘲めいた笑いを浮かべた。
「……がっかりさせてすみません」
するとアーシェルは頬杖をついて、慈愛にあふれた、柔らかな微笑を虹に向けた。
「いいえ……虹様は、思い描いていた王とは違いましたけれども、おかわいらしくて、目が離せない、大切な我が水晶の君でございます」
優しく虹の髪を撫でながら、睦言を囁いた。頬が熱くなるのを感じて、虹が眼をそらしたところに、次の言葉が投げられる。
「愛し、愛されたいという悩ましい欲望を焚きつけられる。不動でいた胸の裡 を、嵐のように揺さぶられるのです。生きることの神秘を、虹様は教えてくださいました」
返す言葉が見つからなくて、虹は黙っていた。ただ、人生を大きく左右されたという意味では、同じ気持ちだった。これまで平和に暮らしてきた三十余年の生よりも、水晶の異郷でアーシェルたちと過ごした濃密な時間の方が、感動、疲弊、怯懦 、歓び――よくも悪くも、はるかに感情を揺さぶられた。
「……先ほどは、幾千夜の種蒔きといいましたが、大水晶環壁 の再生には幾星霜を要するでしょう。次の祝宴までに、どれだけの同胞が生き残れるか判りません。私も無事では済まされないでしょう」
「え……」
虹は上体を起こして、真意を探ろうとアーシェルの顔を覗きこんだ。すると彼も身を起こし、虹の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「虹様が、どうしても“千の仔を孕みし水晶子宮 ”を厭 うのであれば、もうお止めいたしません。我らは……滅びゆく種族なのでしょう」
その声に、非難の響きはなかった。絶句する虹を見つめたまま、アーシェルは淡い微笑すら浮かべて続けた。
「ならば最後の命の燃焼させ、宇宙の御意思に虹様を託そうと思います」
凛とした眼差しには、強靭な意思と、穏やかな諦念、優しさが見てとれる。
覚悟を決めた碧い瞳を見つめながら、虹は、彼の精神的な強靭さを推しはかろうとしていた。己の都合の良い勘違いを疑いながら、彼によって与えられた真心に打ちのめされていた。
あれほど水晶族の繁栄を願っていたのに――取り返し難い大罪を犯したというのに――自分の最悪の部分を、これでもかというほど、さんざん見せてきたのに……
「言葉にできないほど、虹様を愛しております」
虹は息をのんだ。みるみる視界が潤み、喉が震えた。アーシェルは微笑を浮かべながら、手を伸ばして、虹の頬をゆっくり撫でた。
「私の命、私の運命、何よりも、すべてを引き換えにしても、虹様を愛しております。虹様より大切なものなど、この宇宙にありえません」
「僕は、本当にっ……ごめんなさい、どう償えば……ごめんなさい、どうか赦して」
虹は、頬に押しあてられた手にすがりつくようにして、自分の手を重ねた。
「貴方を赦します」
愛おしげに細められた眸に、きらきらと宝石のような光が輝いた。
赦します――これまでに聞いたことがないほど甘美な響きであると同時に、胸が押しつぶれそうなほど苦しかった。轟々たる非難の嵐よりも、彼の寛大な赦しの方が身に堪えた。
「どうして、赦せるんですか? 僕は、こんな、なのに……っ」
頬に涙をしたたらせ、声を詰まらせながら、虹は訊ねた。
「この想いが虹様に届いた、それで十分です。私の方こそ、辛く責めてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ、アーシェルは悪くありません……!」
「何があろうと、虹様を愛し続けることに変わりはありません。この想いは不滅です。魂は、いつまでも虹様のお傍に」
無償の愛の告白が、虹の心にしみこんでくる。
この愛が、歪 な関係から生まれたものだとしても、もはや疑うことはできなかった。アーシェルという男は、真実、心から虹を愛しているのだ。
乾いた躰に、ひさしぶりに身内から湧きあがってくる力を感じた。苦悩の軛 から解放されて、我が身に水晶の輝きが満ちていく。
「僕は……」
けれども、心を打ち明けるには、すべてを伝えるには、あまりにも時間がなかった。
「ふたたび座標を特定される前に、こちらから時空往還機を繋げます。虹様はジュラと共にお逃げください」
眼差しから甘さが消えて、きつい光が灯った。戦士のように、硬質な空気を纏う。
「ジュラと?」
突然の変化に戸惑いながら、虹は訊ねた。アーシェルは立ちあがると、虹の手をとって助け起こした。
「あれは虹様の最初の水晶嬰児 です。未熟なところはありますが、虹様をお守りする力はあります」
「アーシェルは?」
「錬金術師は虹様を取り返しにくるでしょう。私は迎え討たねばなりません」
「だめです、一緒にいきましょう」
虹は反射的に答えた。
「私は八職頭 でございます。王を守る不破の盾。ここに残ります」
「いけません!」
「虹様はジュラと共に、揺籃 の泉にお逃げください。あの秘された洞窟には奥行きがあり、地底湖まで通じています。備蓄もありますから、敵が退 くまで御隠れになっていてください」
「だったら、皆でいきましょうよ!」
虹はアーシェルの腕をきつく掴んで訴えた。
「逃げても侵略は止められません。しかし時空往還機を操れる錬金術師を討ち取れば、敵も退 かざるをえないでしょう」
鮮やかな青い瞳に灯る、強烈な意思の光を見て、虹は打ちのめされた。
「厭だ、いかないで……」
説得できないと知りながら、いわずにはいられなかった。子供みたいに泣きじゃくりながら、顔から四肢から、血の気が引いていく気がした。
「僕といて……」
すべてを擲 って、ひざまずいて哀願する虹の傍に、アーシェルも膝をついた。同じ目線になって、心を捧げる。
「虹様、愛しております」
アーシェルは両腕で虹を抱きしめ、ぐしょぐしょに泣き濡れている顔を見つめた。
「ぅ、ぐ……僕も……っ」
虹は喉がつまり、最後まで言葉を発することができなかった。止めようもなく、涙が頬をすべりおちていく。
アーシェルは言葉にならない声をなだめるようにかけながら、左手で虹の顔に、耳に触れ、湿った髪を指で梳いた。優しく虹の腰を引き寄せ、額にくちびるを押しあてた。それから眉に、まぶたに。鼻先にもちゅっと音をたて、手を虹の顎に添え、くちびるを寄せた。
「ふぅ……っ」
少し冷たいくちびるを受けとめながら、虹は両手をアーシェルの首にまわした。アーシェルも両腕を虹に巻きつけ、胸にしっかりと抱きとめてくれた。キスをしながら、もう随分と昔に感じる、あの夜、滝のしたで交わしたくちづけが思いだされた。
血が、肉が、心が、互いの存在の定義しづらい微妙な部分が、すべて、えもいわれぬ抱擁のなかでひとつに溶けあっていく。
くちびるが離れたとき、虹は嗚咽を洩らした。哀しみではなく、魂の欲求で。恋しさで。堪えきれず、涙をこぼし、声をあげた。
「いかないで、お願い……!」
傍にいて。
どうか、傍にいて。
もう離れたくない。最後まで一緒にいたい。
心から願ったが、無情にも梢から、水晶族の哨兵がちらほらと姿を見せた。
立ちあがるアーシェルに手をとられ、虹もふらふらと身を起こしたが、立っていることが不思議なほど、心は千々に乱れていた。
「御迎えにあがりました」
傍にやってきたジュラは恭しくお辞儀すると、折りたたまれた装束と武装をアーシェルに手渡した。
「ジュラ、虹様を頼みます」
「しかと承りました」
ジュラは恭謙 に頷くと、謹厳 な表情のまま虹を見た。
緊張と焦燥のあまり、虹は倒れてしまいそうだった。心臓が壊れそうなほど脈打っている。
まだ何も――大切なことは何も伝えられてないのに――考える間もなく、アーシェルにそっと背を押されて、虹は、力なくジュラの方へ歩み寄った。
「アーシェル!」
慌てて振り向くと、アーシェルのくちびるにかそけき微笑がよぎった。
「虹様、どうかご無事で。星の導きと御加護がありますように」
木漏れ日のしたに佇むアーシェルは、幻想的に美しかった。透きとおった、碧い瞳。月白 の髪を真珠母貝のように煌めかせ、凛として、果敢なくて、まるで美しい生き物の終焉のように。
「待って……!」
咄嗟に手を伸ばしたが、水晶のごとき光を放ちつつ、空間魔法が展開した。光が収束したとき、アーシェルは幻のように消えていた。
ふたりとも白い単衣を羽織って、手を繋いで、木陰の芝に横たわっていた。木の間からこぼれた陽がきらきらと踊っていて、遠くで小鳥が囀っている。
「……ここにいたら、敵に見つかるんじゃありませんか?」
虹は、煌めく梢を仰ぎ見たまま、隣にいるアーシェルに問いかけた。
「すぐに移動します」
そう答えておきながら、アーシェルは起きあがろうとはしない。穏やかな声音で、言葉を継ぐ。
「ずっと御
虹は自嘲めいた笑いを浮かべた。
「……がっかりさせてすみません」
するとアーシェルは頬杖をついて、慈愛にあふれた、柔らかな微笑を虹に向けた。
「いいえ……虹様は、思い描いていた王とは違いましたけれども、おかわいらしくて、目が離せない、大切な我が水晶の君でございます」
優しく虹の髪を撫でながら、睦言を囁いた。頬が熱くなるのを感じて、虹が眼をそらしたところに、次の言葉が投げられる。
「愛し、愛されたいという悩ましい欲望を焚きつけられる。不動でいた胸の
返す言葉が見つからなくて、虹は黙っていた。ただ、人生を大きく左右されたという意味では、同じ気持ちだった。これまで平和に暮らしてきた三十余年の生よりも、水晶の異郷でアーシェルたちと過ごした濃密な時間の方が、感動、疲弊、
「……先ほどは、幾千夜の種蒔きといいましたが、大水晶
「え……」
虹は上体を起こして、真意を探ろうとアーシェルの顔を覗きこんだ。すると彼も身を起こし、虹の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「虹様が、どうしても“
その声に、非難の響きはなかった。絶句する虹を見つめたまま、アーシェルは淡い微笑すら浮かべて続けた。
「ならば最後の命の燃焼させ、宇宙の御意思に虹様を託そうと思います」
凛とした眼差しには、強靭な意思と、穏やかな諦念、優しさが見てとれる。
覚悟を決めた碧い瞳を見つめながら、虹は、彼の精神的な強靭さを推しはかろうとしていた。己の都合の良い勘違いを疑いながら、彼によって与えられた真心に打ちのめされていた。
あれほど水晶族の繁栄を願っていたのに――取り返し難い大罪を犯したというのに――自分の最悪の部分を、これでもかというほど、さんざん見せてきたのに……
「言葉にできないほど、虹様を愛しております」
虹は息をのんだ。みるみる視界が潤み、喉が震えた。アーシェルは微笑を浮かべながら、手を伸ばして、虹の頬をゆっくり撫でた。
「私の命、私の運命、何よりも、すべてを引き換えにしても、虹様を愛しております。虹様より大切なものなど、この宇宙にありえません」
「僕は、本当にっ……ごめんなさい、どう償えば……ごめんなさい、どうか赦して」
虹は、頬に押しあてられた手にすがりつくようにして、自分の手を重ねた。
「貴方を赦します」
愛おしげに細められた眸に、きらきらと宝石のような光が輝いた。
赦します――これまでに聞いたことがないほど甘美な響きであると同時に、胸が押しつぶれそうなほど苦しかった。轟々たる非難の嵐よりも、彼の寛大な赦しの方が身に堪えた。
「どうして、赦せるんですか? 僕は、こんな、なのに……っ」
頬に涙をしたたらせ、声を詰まらせながら、虹は訊ねた。
「この想いが虹様に届いた、それで十分です。私の方こそ、辛く責めてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ、アーシェルは悪くありません……!」
「何があろうと、虹様を愛し続けることに変わりはありません。この想いは不滅です。魂は、いつまでも虹様のお傍に」
無償の愛の告白が、虹の心にしみこんでくる。
この愛が、
乾いた躰に、ひさしぶりに身内から湧きあがってくる力を感じた。苦悩の
「僕は……」
けれども、心を打ち明けるには、すべてを伝えるには、あまりにも時間がなかった。
「ふたたび座標を特定される前に、こちらから時空往還機を繋げます。虹様はジュラと共にお逃げください」
眼差しから甘さが消えて、きつい光が灯った。戦士のように、硬質な空気を纏う。
「ジュラと?」
突然の変化に戸惑いながら、虹は訊ねた。アーシェルは立ちあがると、虹の手をとって助け起こした。
「あれは虹様の最初の水晶
「アーシェルは?」
「錬金術師は虹様を取り返しにくるでしょう。私は迎え討たねばなりません」
「だめです、一緒にいきましょう」
虹は反射的に答えた。
「私は
「いけません!」
「虹様はジュラと共に、
「だったら、皆でいきましょうよ!」
虹はアーシェルの腕をきつく掴んで訴えた。
「逃げても侵略は止められません。しかし時空往還機を操れる錬金術師を討ち取れば、敵も
鮮やかな青い瞳に灯る、強烈な意思の光を見て、虹は打ちのめされた。
「厭だ、いかないで……」
説得できないと知りながら、いわずにはいられなかった。子供みたいに泣きじゃくりながら、顔から四肢から、血の気が引いていく気がした。
「僕といて……」
すべてを
「虹様、愛しております」
アーシェルは両腕で虹を抱きしめ、ぐしょぐしょに泣き濡れている顔を見つめた。
「ぅ、ぐ……僕も……っ」
虹は喉がつまり、最後まで言葉を発することができなかった。止めようもなく、涙が頬をすべりおちていく。
アーシェルは言葉にならない声をなだめるようにかけながら、左手で虹の顔に、耳に触れ、湿った髪を指で梳いた。優しく虹の腰を引き寄せ、額にくちびるを押しあてた。それから眉に、まぶたに。鼻先にもちゅっと音をたて、手を虹の顎に添え、くちびるを寄せた。
「ふぅ……っ」
少し冷たいくちびるを受けとめながら、虹は両手をアーシェルの首にまわした。アーシェルも両腕を虹に巻きつけ、胸にしっかりと抱きとめてくれた。キスをしながら、もう随分と昔に感じる、あの夜、滝のしたで交わしたくちづけが思いだされた。
血が、肉が、心が、互いの存在の定義しづらい微妙な部分が、すべて、えもいわれぬ抱擁のなかでひとつに溶けあっていく。
くちびるが離れたとき、虹は嗚咽を洩らした。哀しみではなく、魂の欲求で。恋しさで。堪えきれず、涙をこぼし、声をあげた。
「いかないで、お願い……!」
傍にいて。
どうか、傍にいて。
もう離れたくない。最後まで一緒にいたい。
心から願ったが、無情にも梢から、水晶族の哨兵がちらほらと姿を見せた。
立ちあがるアーシェルに手をとられ、虹もふらふらと身を起こしたが、立っていることが不思議なほど、心は千々に乱れていた。
「御迎えにあがりました」
傍にやってきたジュラは恭しくお辞儀すると、折りたたまれた装束と武装をアーシェルに手渡した。
「ジュラ、虹様を頼みます」
「しかと承りました」
ジュラは
緊張と焦燥のあまり、虹は倒れてしまいそうだった。心臓が壊れそうなほど脈打っている。
まだ何も――大切なことは何も伝えられてないのに――考える間もなく、アーシェルにそっと背を押されて、虹は、力なくジュラの方へ歩み寄った。
「アーシェル!」
慌てて振り向くと、アーシェルのくちびるにかそけき微笑がよぎった。
「虹様、どうかご無事で。星の導きと御加護がありますように」
木漏れ日のしたに佇むアーシェルは、幻想的に美しかった。透きとおった、碧い瞳。
「待って……!」
咄嗟に手を伸ばしたが、水晶のごとき光を放ちつつ、空間魔法が展開した。光が収束したとき、アーシェルは幻のように消えていた。