DAWN FANTASY

3章:囁きと庇護者 - 10 -

 背中に感じる温もりが心地良い。
 目を醒ますと、自分のものではない、大きな手が視界に写った。腹に重みを感じて視線を落とすと、白くなめらかな腕が乗っている。
 昨夜の情事がいっぺんに蘇り、七海は目を見開いた。
(ぅわ、どうしよう……っ)
 振り返る勇気はない。心臓の鼓動が煩すぎて、振動が彼に伝わってしまうんじゃないかと心配になる。
 ……記憶が曖昧ではっきり覚えていないが、寝台も躰も綺麗なのは、清めの魔法スプールのおかげなのだろうか? 避妊しなかったように思うが、魔法は避妊の効果も期待できるのだろうか?
 異次元の住人と生殖可能なのか判らないが、昨夜は一度ならず躰を重ねてしまった。最初は儀式めいた流れでそうなったが、二度目、三度目は本当に必要だったのか疑問である。
(うぅ、いざとなったら、ランティスさんに責任をとってもらおう……っ)
 思慮深く優しい人だから、何が起きても七海に配慮してくれるはず……と思いたい。
 先ずは、今朝をどう乗り切るかだ。彼が寝ている間に、着替えを済ませてしまおうか迷っていると、ランティスが吐息を漏らした。
「七海……」
 耳元で、寝起きの掠れ声に囁かれて、顔が燃えるように熱くなった。
 一瞬彼は起きているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。触れあっている背中越しに、規則正しい鼓動を感じる。
 静かに起きあがろうとすると、腰に回された腕に力がこめられた。
「っ!」
 びくぅっとして、七海は動きを止めた。一秒、二秒……腕のいましめが弛緩する。静かにそっと、再び寝台を降りようと試みる。
 と、またしても腕に力がこめられ、寝台のなかに引き戻された。
「七海……」
 首筋に吐息がかかり、七海は唇を噛み締めた。朝からあられもない声が漏れてしまいそうだ。
 内心で身悶えていると、くすっと微笑する気配がした。
 恐る恐る肩越しに振り向くと、どこか悪戯めいた光を灯した、碧氷の瞳とあった。
お早うございますエラ ソヴォワ……」
 おずおずと挨拶すると、ランティスは身を起こして、七海の額にそっとくちづけた。
お早うございますエラ ソヴォワ
 したたるような色香の美男子が、半裸で微笑を浮かべている。ベッドのなかでこんな風に親密なやりとりをしていることが信じられない。
「****、ここイツ**待ってゼノ****……」
 彼は七海の髪にキスをしてから、寝台を降りた。細身のズボンを履いて長衣を羽織ると、七海が寝台にいることを確認してから、部屋をでていった。
「……はぁ~……かっこいいよぅ」
 うっとりと呟くと、七海はじたばたと身悶えた。シーツを乱しながら、顔を両手にしずめて控えめに奇声をあげる。
 昨夜の情事を物語るように、躰に快い倦怠感が残っている。
 こんな風に心が軽やかに、幸せを感じるのはいつ以来だろう?
 気のせいか、陽の射す部屋が一弾と明るんで見える。あれほど悩まされた、霊障的囁きも聞こえない。精神は久しぶりに晴れやかで、自由だった。
 肉体の交歓により、悪魔の魅了を断ち切れたのかもしれない。昨夜肌を触れあわせた瞬間、世界は七海とランティスのふたりきりになって、彼女・・の入りこむ余地はなくなった。
(……きっと彼女は、人の心の弱さにつけいる魔性なんだわ)
 思えばここへ落ちた時から、心臓に茨が巻きついたような、胸苦しさに襲われていた。
 あの最初の場所で、呪いにかかったのではなかろうか?
 闖入者ちんにゅうしゃを除外しようとする呪い――或いは、塔を彷徨う亡霊の呪い――
 正体は判らないが、良くないものに憑かれたことは確かだ。
 悪しき何者かが、七海を殺そうとしていた。
 無限階段から突き落とされたし、飲食を阻み、眩惑にかけて迷宮に誘いこみ、怪しげな扉に誘いこもうとした。
 庇護者たるランティスへの不審を煽りたて、さも味方であるように振る舞った。
 彼女は冥界の魑魅魍魎だ。救済者ではない破壊者、人を破滅に導く暗黒の深淵なのだ。
 悪魔のげんに振り回されてしまったことが、今となっては口惜しくてならない。
 だが、ここへきた当初の不安でいっぱいだった状態を思うと、仕方がないようにも思えた。ランティスとの意思疎通も難航していたし、魑魅魍魎に脅かされて、不安でたまらなかったのだ。
 そんな状態で言葉の通じる女性の声は、後光の射す女神の天啓も同然で、特に心が弱っている時などは、ことさら慰めの言葉は胸に沁みた。
(――でも、もう終わり。もう二度と惑わされない)
 強く胸の裡で唱えた時、ランティスに名前を呼ばれた気がして、七海は目を瞬いた。
「ランティスさん?」
 きょろきょろしていると、窓の外から呼ぶ声が聞こえた。
 絹のガウンを羽織って窓の外を見おろすと、ランティスが立っていた。彼が微笑を湛えて手を振ると、七海は有頂天になって、ほほえまずにはいられない。
 窓の額縁に置いてある魔除けの器に一瞬気をとられたが、七海は窓を開けようとした。しかし鍵に触れた瞬間、ぱちっと小さな衝撃を指に感じた。
 呪い――恐怖――呪縛――正体不明の不吉な予感が胸にきざしたが、陽射しを浴びて微笑するランティスを見ると、躊躇いは消えた。
「ランティスさん!」
 七海は満面の笑みを浮かべて窓から身を乗りだし、大きく手を振った。
 するとランティスはふぅっと宙を浮きあがり、七海と目線が同じ高さになった。驚く七海の前で、彼は窓に身をすべらせ、ふわりと部屋のなかに入ってきた。唖然とする七海を両腕で抱きしめ、唇を重ねた。
「んっ……」
 なんて冷たいくちびる――心の臓が凍りついていく――氷よりも冷たい魔女のくちづけ?
「厭ッ!」
 両腕をつかって必死に振りほどくと、距離をとって、壁に背を押しつけた。
 なんてことだ。ランティスの輪郭はぼやけて、夜よりもなお暗い黒衣をまとった女性の姿に変わった。二度と惑わされないと誓った傍から、邪悪なくちづけを赦してしまった。
 帽子から垂れた面紗ヴェールが揺れて、ぞくっとするほど婀娜っぽい紅をさした唇が、ゆるりと弧を描く。

“どこへも逃げられないのよ、ナナミ……”

 甘い毒のような蜜の囁きが、液状になって耳に入りこんでくる。目眩にも似た恍惚感を覚えるが、彼女の背に伸びる影は、鎌首をもたげた蛇そのものだ。
「ひぃっ」
 七海は両腕で頭をかばい、部屋の隅にうずくまった。
 ぴちょん、ぴちょん、たらいに雫が滴り落ちるような音が聞こえる。
 恐る恐る顔をあげると、彼女は消えていた。だが変容した空気は戻らない。室内にも関わらず、天井から水滴が降ってくる。
 怖い、怖い、怖い。
 全身に汗が吹きだし、頭のなかで何千もの声がさえずりだした。気味の悪い何か、不気味な胃袋か何かに呑みこまれてしまう!
 名状し難い分裂衝動に襲われると同時に、不可知の禍々しい力が襲いかかり、足元の地面がべこっと凹んだ。
「きゃああぁぁッ!」
 蟻地獄のような底の知れない闇に堕ちる――幻覚の深淵ではない、此の世にあらざる飽くなき深淵、異界の黒洞々こくとうとうに呑みこまれた。