アッサラーム夜想曲
聖域の贄 - 3 -
午後になるとジュリアスは、観兵 式の予行演習視察のため、円形闘技場を訪れた。
朝から一般開場されているので、観客席は大勢の人で埋め尽くされており、四脚騎竜隊、騎馬隊、歩兵隊の一糸乱れぬ行軍に拍手喝采を送っている。
衆目を避けて見晴らしの良い歩廊へいくと、まばらに将兵がいて、そのなかにナディアとアルスランの姿を見つけた。
ふたりの顔を見たジュリアスは、少し緊張が解けた気分になって、薄く微笑し、隣に歩いていった。
「こんにちは、総大将」
「こんにちは」
こちらに気がついたふたりがそれぞれ挨拶をすると、ジュリアスも手をあげて応え、隣に並んで眼下をみおろした。
「順調そうですね」
「ええ、整然としていますね。晴れて良かった」
ナディアが明るい調子で答えた。
気楽に眺めている三人と違って、監督櫓に立つアーヒムは眼光鋭く、裂帛 の怒号を響かせている。
彼の大喝 は心胆 をびりびりとさせるが、良い緊張を騎士たちに漲 らせ、一糸乱れぬ行軍の精度を高めていた。
騎馬隊の先頭はルーンナイト、ヤシュム、その後ろにユニヴァースと続き、他にも見知った顔がちらほらあった。
例えばアーヒムの長男、今年十六歳になるローシンもいる。
「……大分父親に似てきましたね」
ジュリアスの視線を辿って、ナディアがいった。
「ええ、すぐに判りました」
「我々は顔を覚えやすいですが、本人は、父親が有名すぎてやり辛いかもしれませんね」
ナディアの言葉に、思いだしたようにアルスランが笑った。
「そういえば、ヤシュムの長男も入隊したんだよな。入った早々に騒ぎを起こして、ローシンが仲裁したなんて話を聞いたぞ。そんなところまで親にそっくりだな」
「ふたりに聞かれたら、怒られますよ」
ナディアの言葉にアルスランは笑った。
「そりゃ、面と向かってはいわないさ。だがこうして話題にしているのは、俺だけじゃないと思うぞ」
「ふふ……そういえば、アースレイヤ皇太子のお話はいかがでしたか?」
ナディアは微笑を抑えたあと、ジュリアスを見て訊ねた。
「失踪捜査班の統括を頼まれました。回答は保留しましたが、状況を見て引き受けるかもしれません」
ジュリアスは前を向いたまま、淡々と答えた。
「市街でも噂になっているようですしね……この手の話題は誇張されて広まるものですから」
ナディアがいうと、今度はアルスランが辟易した口調で続けた。
「失踪人相談所では毎朝列ができるそうだ。新聞の尋ね人欄も増える一方で、このままだと、じきに一面を埋め尽くしかねん」
「妙ですよね……競竜杯のあとも治安強化は維持されているというのに」
ナディアはアルスランに感想を述べたあと、ジュリアスの方を向いて訊ねた。
「財団 が絡んでいると思いますか?」
ふたりから視線を向けられたジュリアスは、軽く頸を振ってみせた。
「それはないでしょう。見 えた相手なら、私が視透 しています」
競竜杯の不正取引を企てたクシャラナムン財団には、既に鉄槌がくだされている。今後永久にアッサラームに出入りすることはできない。諸悪である大幹部のジャプトア・イヴォーに至っては、ジュリアスみずから引導を渡してやった。
報復するにしても、これほど短期間でアッサラームに牙を剥くことは不可能だ。こちらも察知できるだけの探索網は敷いてある。どんなに怪しくとも、今回に限っては財団は無関係だ。
「新手の手練が顕れたのだとしたら、相当に厄介ですね」
アルスランの言葉にナディアが相槌をうち、そのあと沈黙が流れた。
会話が途切れると、軍靴の音と号令が響いて聞こえる。
ジュリアスは行軍の様子をじっと見おろしながら、思考の海を漂いだした。
新手の手練……仮に豊富な資金と人数を擁 する組織が潜んでいるとしても、これほど巧妙に追跡を逃れることができるものだろうか?
競竜杯が終わったあとも警戒網は殆ど維持されているのに、白昼堂々と姿を消した神殿祈祷師 の痕跡を全く見つけられないというのは、些 か不自然に感じる。巧妙というよりは奇妙だ。どのような手口であろうと、相手が人であれば何かしら辿れるはずである。ジュリアスが遠視すれば或いは――しかし他の祈祷師 も試みたはず――見つけられないのではなく、もし、見つからない のだとしたら……
「ところで総大将、このあと少し時間はありますか?」
と、アルスランが沈黙を破った。
なにかを期待しているような顔を見て、ジュリアスは小首を傾げた。
「何ですか?」
「もしよければ、手あわせをお願いしてもよろしいでしょうか?」
するとジュリアスも無表情を溶かして、微笑を浮かべた。
「構いませんよ」
ふたりのやりとりを聞いて、ナディアもほほえんだ。
「では、お供いたします。見物させていただきましょう」
「後でナディアも相手になってやる」
アルスランが誘うと、ナディアは微笑を浮かべたまま頸を振った。
「それほど時間はありませんよ。指揮官会議があることをお忘れですか?」
途端にアルスランは面倒そうな顔つきになった。
「時間が惜しいですね。急ぎましょう」
きびきびと歩きだすアルスランを見て、ジュリアスとナディアは顔を見あわせて笑った。
大理石の階段をおりて稽古場に入ると、白熱した怒号や剣戟 の音が耳に響いた。高い窓から射しこむ午後の陽を浴びて、今日も騎士たちが鍛錬を積んでいる。
そのなかにはエステルの姿もあった。光希が目にかけていた神殿遣えの少年で、大層綺麗な声をしており、変声前は聖歌隊の長も務めていた。入隊したと聞いてはいたが、剣を揮 う姿を見るのは初めてだ。
(悪くない。近衛隊の方が向いていそうではあるが)
まだまだ未熟だが、顔をあげて挑む表情はなかなか気合がはいっている。
古参が後衛を指導し、若い騎士が一人前になろうと精進する姿を見るのは、悪い気分ではなかった。
ジュリアスとアルスランも剣をあわせると、ふたりに気がついた騎士たちは湧き立った。これは見ものだぞ、と周囲に集まってくる。
ジュリアスは彼等の存在を遮断し、臍下 に力を入れて静かに息を吐くと、剣を青眼に構えた。アルスランも一つ深呼吸をしてから剣に集中する。
とたんに空気は張り詰め、見守る観衆も、これが命の瀬戸際のような戦慄を肌に感じとった。
緊張に充 ちた一瞬。
アルスランは遠慮容赦のない俊敏さで、胴を薙 にきた。その動きを読んだジュリアスは、軽くいなして距離をとる。アルスランも目の動きで追いかけ、寸刻をおかず次の攻撃を繰りだしてくる。
ジュリアスは半身をひねるようにして避けながら、左手でアルスランの鋼腕をねじりあげようとした。それは決定的瞬間に見えた為、観衆から嘆賞の声があがった。
しかし、アルスランはおよそ生身では不可能な関節の動きで回避した。肘を半回転、また半回転させて逆にジュリアスの手首を掴んだ。
「器用ですね」
互いの額が触れあう距離で、ジュリアスが感嘆したようにいうと、アルスランも口角をあげた。
「殿下には感謝しておりますよ」
神経の通う鋼腕は、並の男ならば手首を痛めるほどの力をこめていたが、ジュリアスには通用しなかった。軽く雷 を流してみると、感電したアルスランは呻いた。ぱっと手を離して距離をとる。
「さすがに無理ですっ!」
警戒した様子で、肩や腕をせわしくなく撫でている。思わずジュリアスは笑ってしまった。
「伝播 するようですね。すみません、今度はそちらからどうぞ」
互いに呼吸を整えると、音が消えて、意識は再び鉄 に集中した。
今度はアルスランが剣を右下段に構え、静かな足取りで近づいてくる。これが戦場なら、相手に恐怖を植えつけるような、ゆったりとした足取りだ。だが、気圧されるようなジュリアスではない。
凪の一閃――アルスランのすぐ目の前に、きらめく刀の切っ先が迫っていた。剣で受けるには間にあわない――躰をひねりながら脛に脚をかけると、ジュリアスは逆に脚を引いて体重をかけ、見事に転倒を防いだ。
引く力が拮抗し、火花散る閃光が疾 った。互いの息がかかるほどの距離で、剣を交えたのだ。
はらりと金銀の髪の幾筋かが散った。
その際どさに、観衆の口から恐怖ともつかぬ叫びが低くあがった。
傍目には稽古を越えた剣戟 に映っていても、ふたりにとっては完全に制御された動きだった。
つぎにジュリアスが放った眉間を狙った太刀筋は際どかったが、アルスランが避けることも、彼が鋼腕の精度をあげるために、遠慮のない剣の打ちあいを希望していることも判っていた。
瞬きすら赦されない――真剣の閃き――応酬はしばらく続き、頃合いを見てふたりは引いた。
互いに儀礼的な所作で剣を鞘にしまうと、わっと歓声があがった。
「腕の調子はいかがですか?」
ジュリアスが訊ねると、アルスランは笑った。
「問題ありません」
「随分と無茶な動きに見えましたが、肘の機関部 は動きますか?」
「ええ、この通り」
アルスランは袖をめくって、鋼腕を曲げてみせた。するとナディアも近寄ってきて、興味深そうにしげしげと観察した。
「見事なものですね」
感想をこぼすナディアに、
「クロガネ隊は優秀です」
ジュリアスはどこか誇らしげに頷いた。ナディアも同意しながら鋼腕を撫でると、窺うようにアルスランを見た。
「触れられていると判りますか?」
「ああ、くすぐったいぞ」
ナディアが驚きに目を瞠ると、アルスランは口角をあげた。
「そんなわけあるか。だが、触れられていることは判る」
「なるほど……これでいつ四肢を喪っても安心ですね」
ナディアが真面目に感心した顔つきでいうと、アルスランの口が軽くひきつった。
朝から一般開場されているので、観客席は大勢の人で埋め尽くされており、四脚騎竜隊、騎馬隊、歩兵隊の一糸乱れぬ行軍に拍手喝采を送っている。
衆目を避けて見晴らしの良い歩廊へいくと、まばらに将兵がいて、そのなかにナディアとアルスランの姿を見つけた。
ふたりの顔を見たジュリアスは、少し緊張が解けた気分になって、薄く微笑し、隣に歩いていった。
「こんにちは、総大将」
「こんにちは」
こちらに気がついたふたりがそれぞれ挨拶をすると、ジュリアスも手をあげて応え、隣に並んで眼下をみおろした。
「順調そうですね」
「ええ、整然としていますね。晴れて良かった」
ナディアが明るい調子で答えた。
気楽に眺めている三人と違って、監督櫓に立つアーヒムは眼光鋭く、
彼の
騎馬隊の先頭はルーンナイト、ヤシュム、その後ろにユニヴァースと続き、他にも見知った顔がちらほらあった。
例えばアーヒムの長男、今年十六歳になるローシンもいる。
「……大分父親に似てきましたね」
ジュリアスの視線を辿って、ナディアがいった。
「ええ、すぐに判りました」
「我々は顔を覚えやすいですが、本人は、父親が有名すぎてやり辛いかもしれませんね」
ナディアの言葉に、思いだしたようにアルスランが笑った。
「そういえば、ヤシュムの長男も入隊したんだよな。入った早々に騒ぎを起こして、ローシンが仲裁したなんて話を聞いたぞ。そんなところまで親にそっくりだな」
「ふたりに聞かれたら、怒られますよ」
ナディアの言葉にアルスランは笑った。
「そりゃ、面と向かってはいわないさ。だがこうして話題にしているのは、俺だけじゃないと思うぞ」
「ふふ……そういえば、アースレイヤ皇太子のお話はいかがでしたか?」
ナディアは微笑を抑えたあと、ジュリアスを見て訊ねた。
「失踪捜査班の統括を頼まれました。回答は保留しましたが、状況を見て引き受けるかもしれません」
ジュリアスは前を向いたまま、淡々と答えた。
「市街でも噂になっているようですしね……この手の話題は誇張されて広まるものですから」
ナディアがいうと、今度はアルスランが辟易した口調で続けた。
「失踪人相談所では毎朝列ができるそうだ。新聞の尋ね人欄も増える一方で、このままだと、じきに一面を埋め尽くしかねん」
「妙ですよね……競竜杯のあとも治安強化は維持されているというのに」
ナディアはアルスランに感想を述べたあと、ジュリアスの方を向いて訊ねた。
「
ふたりから視線を向けられたジュリアスは、軽く頸を振ってみせた。
「それはないでしょう。
競竜杯の不正取引を企てたクシャラナムン財団には、既に鉄槌がくだされている。今後永久にアッサラームに出入りすることはできない。諸悪である大幹部のジャプトア・イヴォーに至っては、ジュリアスみずから引導を渡してやった。
報復するにしても、これほど短期間でアッサラームに牙を剥くことは不可能だ。こちらも察知できるだけの探索網は敷いてある。どんなに怪しくとも、今回に限っては財団は無関係だ。
「新手の手練が顕れたのだとしたら、相当に厄介ですね」
アルスランの言葉にナディアが相槌をうち、そのあと沈黙が流れた。
会話が途切れると、軍靴の音と号令が響いて聞こえる。
ジュリアスは行軍の様子をじっと見おろしながら、思考の海を漂いだした。
新手の手練……仮に豊富な資金と人数を
競竜杯が終わったあとも警戒網は殆ど維持されているのに、白昼堂々と姿を消した
「ところで総大将、このあと少し時間はありますか?」
と、アルスランが沈黙を破った。
なにかを期待しているような顔を見て、ジュリアスは小首を傾げた。
「何ですか?」
「もしよければ、手あわせをお願いしてもよろしいでしょうか?」
するとジュリアスも無表情を溶かして、微笑を浮かべた。
「構いませんよ」
ふたりのやりとりを聞いて、ナディアもほほえんだ。
「では、お供いたします。見物させていただきましょう」
「後でナディアも相手になってやる」
アルスランが誘うと、ナディアは微笑を浮かべたまま頸を振った。
「それほど時間はありませんよ。指揮官会議があることをお忘れですか?」
途端にアルスランは面倒そうな顔つきになった。
「時間が惜しいですね。急ぎましょう」
きびきびと歩きだすアルスランを見て、ジュリアスとナディアは顔を見あわせて笑った。
大理石の階段をおりて稽古場に入ると、白熱した怒号や
そのなかにはエステルの姿もあった。光希が目にかけていた神殿遣えの少年で、大層綺麗な声をしており、変声前は聖歌隊の長も務めていた。入隊したと聞いてはいたが、剣を
(悪くない。近衛隊の方が向いていそうではあるが)
まだまだ未熟だが、顔をあげて挑む表情はなかなか気合がはいっている。
古参が後衛を指導し、若い騎士が一人前になろうと精進する姿を見るのは、悪い気分ではなかった。
ジュリアスとアルスランも剣をあわせると、ふたりに気がついた騎士たちは湧き立った。これは見ものだぞ、と周囲に集まってくる。
ジュリアスは彼等の存在を遮断し、
とたんに空気は張り詰め、見守る観衆も、これが命の瀬戸際のような戦慄を肌に感じとった。
緊張に
アルスランは遠慮容赦のない俊敏さで、胴を
ジュリアスは半身をひねるようにして避けながら、左手でアルスランの鋼腕をねじりあげようとした。それは決定的瞬間に見えた為、観衆から嘆賞の声があがった。
しかし、アルスランはおよそ生身では不可能な関節の動きで回避した。肘を半回転、また半回転させて逆にジュリアスの手首を掴んだ。
「器用ですね」
互いの額が触れあう距離で、ジュリアスが感嘆したようにいうと、アルスランも口角をあげた。
「殿下には感謝しておりますよ」
神経の通う鋼腕は、並の男ならば手首を痛めるほどの力をこめていたが、ジュリアスには通用しなかった。軽く
「さすがに無理ですっ!」
警戒した様子で、肩や腕をせわしくなく撫でている。思わずジュリアスは笑ってしまった。
「
互いに呼吸を整えると、音が消えて、意識は再び
今度はアルスランが剣を右下段に構え、静かな足取りで近づいてくる。これが戦場なら、相手に恐怖を植えつけるような、ゆったりとした足取りだ。だが、気圧されるようなジュリアスではない。
凪の一閃――アルスランのすぐ目の前に、きらめく刀の切っ先が迫っていた。剣で受けるには間にあわない――躰をひねりながら脛に脚をかけると、ジュリアスは逆に脚を引いて体重をかけ、見事に転倒を防いだ。
引く力が拮抗し、火花散る閃光が
はらりと金銀の髪の幾筋かが散った。
その際どさに、観衆の口から恐怖ともつかぬ叫びが低くあがった。
傍目には稽古を越えた
つぎにジュリアスが放った眉間を狙った太刀筋は際どかったが、アルスランが避けることも、彼が鋼腕の精度をあげるために、遠慮のない剣の打ちあいを希望していることも判っていた。
瞬きすら赦されない――真剣の閃き――応酬はしばらく続き、頃合いを見てふたりは引いた。
互いに儀礼的な所作で剣を鞘にしまうと、わっと歓声があがった。
「腕の調子はいかがですか?」
ジュリアスが訊ねると、アルスランは笑った。
「問題ありません」
「随分と無茶な動きに見えましたが、肘の
「ええ、この通り」
アルスランは袖をめくって、鋼腕を曲げてみせた。するとナディアも近寄ってきて、興味深そうにしげしげと観察した。
「見事なものですね」
感想をこぼすナディアに、
「クロガネ隊は優秀です」
ジュリアスはどこか誇らしげに頷いた。ナディアも同意しながら鋼腕を撫でると、窺うようにアルスランを見た。
「触れられていると判りますか?」
「ああ、くすぐったいぞ」
ナディアが驚きに目を瞠ると、アルスランは口角をあげた。
「そんなわけあるか。だが、触れられていることは判る」
「なるほど……これでいつ四肢を喪っても安心ですね」
ナディアが真面目に感心した顔つきでいうと、アルスランの口が軽くひきつった。