アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 1 -

 晴れの四月一日。
 薄紗にされた柔らかな陽を感じて、光希の意識は浮上し始めた。
 窓の向こうで、小鳥が囀っている……
 素馨ジャスミンと柑橘、新鮮な朝の匂いが心地良い。
「光希。そろそろ起きる時間ですよ」
「ん……」
 覆いかぶさる気配を感じて、光希は開こうとしていた瞼を閉じた。額に優しいくちづけが贈られる。柔らかな感触が離れていくと共に、ゆっくりと瞼をもちあげた。
「おはよう~……」
 目をこすりながら寝台に腰かけているジュリアスを見あげると、澄み透った海のように青い瞳が、優しく細められた。凛々しい軍服姿で、黄金色きんいろの巻毛が陽に煌めいて、今朝も優雅で神々しい完璧な美貌である。
「お早う。よく眠れましたか?」
「うん……起きるか~……」
 両の拳を突きあげて伸びあがると、ジュリアスの明るい碧眼がなごんだ。やや前かがみの姿勢で、寝癖のついている黒髪にキスをしてから立ちあがった。
「したで待っています」
「ん」
 彼が寝室をでていくのを見届けてから、光希もようやく寝台をおりた。欠伸を噛み殺しながら、折りたたまれた黒い詰襟の制服を手にとって、全身鏡の傍にある衝立にひっかける。寝室着を脱ぎ捨て、肌着のうえに光沢のある灰色の絹を羽織り、黒い下衣にたくしこもうとしたところで、思わず手が止まった。
「あれ?」
 太っている自覚はあるが、いつもに増してぽっこり腹がでている。気の所為ではなく、腰回りがきついようだ。鏡で横から見ると顕著で、去年と比べて明らかに腹回りが一段増していることに気がついた。
 心当たりは……ある。近頃気に入っている濃厚な焼乾酪チーズがあり、毎日のように貪っているのだ。
(うーむ……食べすぎたかぁ)
 ただでさえ年明けからの増量分を落とせていないのに、ぽっちゃりが加速してしまった。
 身支度を終えて、減量すべきか考えながら一階におりていくと、広間の前に立つ護衛騎士のルスタムが優雅に一揖いちゆうした。
「お早うございます、殿下」
「お早う、ルスタム」
 部屋に入ると、今度はナフィーサがにこやかに挨拶をしてくれる。
「お早うございます、殿下」
「お早う、ナフィーサ」
 笑み返してから光希は、窓辺の琥珀色と青に彩られた絨毯で寛ぐジュリアスの隣に腰をおろした。クッションを使わずとも、毛足が長くふかふかしているので、分厚い苔に沈みこんでいくようで至極心地が良い。
「久しぶりに晴れたね」
 光希がいうと、ジュリアスも窓の向こうを眺めた。
「そうですね。雨のなか演習をせずにすみましたね」
「ね、良かった。大勢集まりそう」
 ふたりが定位置についたのを見て、ナフィーサは手際よく給仕を始めた。
 低い丸卓のうえに、次々に湯気のたつ料理が並んでいく。鷓鴣しゃこ肉の薄切り、目玉焼きに、向日葵の種の入った焼きたての麺麭パン。どれも光希の好物ばかりで、朝から食欲を刺激する良い匂いが漂っている。
「美味しそう~、いただきまーす」
「……糖蜜はかけなくていいのですか?」
 麺麭パンを頬張る光希を見て、ジュリアスは不思議そうに訊ねた。光希は頷きながら、
「ちょっと太ったみたいだから、やめておく」
「光希はいつでも魅力的ですよ。気にする必要はありませんよ」
 彼が本気でそう思っていることは表情で判る。光希は苦笑を浮かべた。
「ジュリは僕に甘すぎるんだよ。ちょっと僕に与えすぎないようにして。ナフィーサもね、柑蜜もいらないからね?」
 と、糖蜜の代わりに林檎や杏の柑蜜煮といった小瓶を手前に寄せようとするナフィーサにも釘をさした。ジュリアスは愉快そうに微笑しているが、光希は本気だ。増量の最たる要因は間食の多さだが、この甘やかされた生活にも問題の一端はあるだろう。
 食後の紅茶を飲んだあと、ふたりは同じ四輪馬車に乗って軍部に向かった。
 競竜杯が終わり、多忙を極めていたジュリアスもいくらか落ち着いて、最近は一緒に仕事場に向かっているのだ。
 軍部に近づくにつれて、窓の向こうから澄んだ金管の音色が聴こえてきた。
「もう始まっているんだね」
 光希は窓の向こうに目をやり、壮麗な隊伍たいごを探そうとしたが、豊かな針葉樹の群が見えるばかりだった。
「闘技場ならよく見えると思いますよ。一般開場されているので、混雑していると思いますが」
 今日は、六月に開催される西都文化展にあわせた観兵かんぺい式の予行演習が朝から行われているのだ。
 予行とはいえ、絢爛華麗な皇族馬車がもちだされ、礼装した公宮近衛や聖都憲兵隊による壮麗な行軍は見応えがある。天気も良いので、物見高いアッサラーム市民は、円形闘技場に押し寄せていることだろう。
「本当に晴れて良かったよ。最近雨が多いから」
 にこやかに光希がいうと、ジュリアスもほほえんだ。
「そうですね」
「ジュリは参加しないんだよね?」
「ええ。監督指揮はアーヒムとルーンナイトに任せてあります」
「そっか。時間があれば、僕も見にいこうかなぁ」
「人が多いから、気をつけてくださいね」
「うん」
 軍部に到着すると、ふたりはキスをして別れた。それぞれの職場へ、光希はクロガネ隊の工房へ向かった。
 早朝なので人は少ない。
 木屑、鉄屑、仄かに甘い樹脂の匂い。赤煉瓦の格子窓から斜めに射しこむ陽のなかで、塵芥ちりあくたが瞬いている。
「お早う」
 床を掃いているノーアに声をかけると、少年は、ぱっと顔を輝かせた。
「お早うございます! 殿下」
 今日も良い笑顔である。この勤勉な少年は、清掃担当より朝が早い。新人に課せられた役目というわけではなく、彼の性格によるものだ。
 光希は明るい気分でちょっと立ち止まり、陽の射す工房を眺めた。頑丈な樫机にひだまりをつくり、つちの留め金や拡大鏡を燦めかせている。
 静かでおもむきのある景に目を注いでから、日陰になっている乾燥用の樫机に歩いていき、昨日釉薬ゆうやくいて乾かしておいた陶の人形たちを確認した。
 これらは、六月に開催される西都文化展に展示する作品、燭台に使われる部品の一つである。
 西都文化展とは、毎年大雨季の終わりに開かれる、西大陸規模の物流行事の一つで、全ての部族が日頃の敵意を忘れて交流する親善の催しである。
 競竜杯同様、東西大戦のさなかには見送られていた親善行事の一つだが、今年は戦後の復興をかねて、アッサラームでの開催が決まっている。
 尚、西都文化展の開催初日は、朝から観兵かんぺい式があり、光希とジュリアスも公務として馬車で市街を回遊する。その後、西都文化展を視察する予定である。
 戦後初めての開催ということもあり、今年は庭園建築家のアーナトラといった著名人も大勢参加する。光希を含むクロガネ隊も出展を予定している。競竜杯で光希の手掛けた遊戯卓が評判だったため、アースレイヤ皇太子が国命としてクロガネ隊に西都文化展の作品制作を発注したのである。
 手掛けている作品は燭台。
 題名は“祈り”。
 復興への祈りをこめて、光希を含む十名がそれぞれ三つの燭台を作り、合計三十の燭台に当日会場で火を灯すのだ。
 素晴らしい試みだと光希は思う。工房仲間も皆楽しみながら制作している。くろがねで作る者が多いが、なかには真鍮や陶で作る者もいたりして、普段は試せないことを各々自由にやっている。
 いずれも作り手の想いのこめられた燭台だ。聖蝋に灯る火は、きっと見る人の心を明るく照らしてくれるに違いない。