アッサラーム夜想曲
幾千夜に捧ぐ恋歌 - 5 -
朗読会を終えた後、光希は本格的に熱をだして寝こんでしまった。
いわゆる知恵熱である。
意識は朦朧とし、食欲もなく、嘔吐に苦しむ羽目になった。普段は血色の良い丸顔を蒼白にさせて、今も寝台の上で苦しげにえづいている。
「光希」
前のめりで口を押える光希の背を、ジュリアスは心配そうに摩っている。
どうにか衝動は治まったが、光希はぐったりと背もたれのクッションに沈みこんだ。
「光希、これを」
手渡された菩提樹の茶 を口に含むと、気分はいくらか和らいだ。
「ありがとう……落ち着いた」
心配そうに髪を撫でる手を、光希は複雑な気持ちで眺めた。
「……あんまり触らないで。汗かいているし、汚いよ」
「清拭 しましょうか?」
光希はゆるく首を振った。
できることなら風呂に入りたいが、今そんなことをしたら熱気で昏倒しかねない。
「……平気だから、ジュリはもういって」
「こんなに辛そうにしている光希を、置いていけませんよ」
彼は本当に善い看護人だ。ずっと付き添ってくれている。
けれども、治まらない吐き気に不安になる。このままだと、彼の目の前で粗相をしてしまいそうで怖かった。
「上半身だけでも、汗を拭きましょう。きっと気持ちいいですよ」
そういってジュリアスは汗で張りついたシャツのボタンを外し、濡らした柔布で肌を拭ってくれた。
「冷たくありませんか?」
「ううん……気持ちいい……」
はふはふと喘ぐ光希を見下ろして、ジュリアスは愁眉をさげた。
「かわいそうに。なかなか熱が引きませんね」
「目を閉じていても、目が回る……はぁ……」
「シィ」
ジュリアスは、息苦しそうに喘ぐ光希の瞼を掌で覆うと、熱をもった額に唇を押し当てた。
「……あまり、傍にいない方がいいよ……うつるかも」
切れ切れに光希が呟くと、ジュリアスは優しい手つきで黒髪を撫でた。
「私なら平気です。傍にいさせてください」
「でも、ジュリの前で、吐いたら……」
「大丈夫だから……そんな泣きそうな顔をしないで」
頬に優しいキスが落ちる。
慈しみに溢れた口づけに、光希の緊張は和らいだ。恐らく、前後不覚の酷い状態になったとしても、彼は光希に幻滅したりしないだろう。
「ごめん……」
「シィ。謝らなくていいから、楽にして」
朦朧として目を醒ます度に、ジュリアスが傍にいた。空が白み始める頃に目を醒まし、ふと隣を見ると椅子に座っているジュリアスと目があった。ずっと看病してくれていたのだろうか?
「目が醒めた? 気分は?」
「ジュリ……僕のことはいいから、休んで」
「平気ですよ。常人より遥かに頑丈ですから。何か、食事を用意させましょうか?」
力なく首を振ると、ジュリアスは心配そうな顔をした。
「まる二日、食事を取っていませんよ。一口だけでも、食べられませんか?」
思いだしたように、幽 かな空腹感が蘇り、光希は淡く頷いた。
ほっとしたようにほほえんだジュリアスは、背中にクッションを当てて、光希の身体を起こした。ナフィーサに卵粥を用意させると、部屋からさがらせて、手ずから給仕をする。
「自分で食べるよ」
「遠慮をしないで」
「……なんだか、嬉しそうだね」
光希の言葉に、ジュリアスは小さく目を瞠った。
「そんなことは……いえ、少しだけ嬉しいのかもしれません。貴方を独占できるから」
「何いってるの」
「本当ですよ。貴方ときたら、いつも人に囲まれて忙しそうにしているのだから。勤勉にもほどがあります」
頬をつつかれて、思わず笑みが零れた。
「だから、こんな時くらい世話をさせてください。ほら、口を開けて」
口元にスプーンを運ばれる。くすぐったいような、暖かい気持ちがこみあげて、光希は素直に口を開いた。
優しい味を咀嚼しながら、ふと遠い記憶が脳裏を過 った。
昔……日本で暮していた頃、熱をだして寝込むと、母は卵雑炊を作ってくれたものだ。林檎を擦りおろしたヨーグルトが好きだった。
「お腹いっぱい?」
目の前にスプーンがあることを思いだして、光希はもう一口だけ食べた。
「ごちそうさま、美味しかった……昔を思いだしたよ」
「昔?」
「アッサラームにくる前のこと……熱をだすと、こんな風に看病してくれたなぁって……」
遠い眼差しをする光希の髪を、ジュリアスは何もいわずに撫でた。
「ジュリは具合が悪い時はどうしていたの? 誰かが傍にいてくれた?」
「私?」
「うん」
「そうですね……病気とは違いますが、神力を持て余していた頃は、よくうなされていましたよ」
「誰も傍にいなかったの?」
「看護されたところで、どうにもなりませんし……」
「――はっ」
いい淀んだ言葉の先に気がついて、光希は小さく息を呑んだ。ジュリアスが神力を持て余していた頃といえば、頻繁に公宮へ渡っていた頃だ。
微妙な表情を浮かべている光希を見て、ジュリアスは少し慌てた。力なく垂れた手を両手で包みこみ、首を傾げる。光希はにやっと笑うと、その手を上からぺしりと叩いた。
「光希?」
「別に、もうとやかくいわないよ……昔は苦労していたんだね……」
光希は言葉の途中で目を閉じた。なんだか目が回る。糸が切れたようにクッションに沈みこむと、ジュリアスの身じろぐ気配がした。
「もう休んで」
「ん……ごめん、少し寝るね」
目を閉じたまま光希は返事をした。ジュリアスが枕の位置を調整してくれる。額に優しいキスを受けたあと、間もなく眠りの揺り籠に誘われた。
いわゆる知恵熱である。
意識は朦朧とし、食欲もなく、嘔吐に苦しむ羽目になった。普段は血色の良い丸顔を蒼白にさせて、今も寝台の上で苦しげにえづいている。
「光希」
前のめりで口を押える光希の背を、ジュリアスは心配そうに摩っている。
どうにか衝動は治まったが、光希はぐったりと背もたれのクッションに沈みこんだ。
「光希、これを」
手渡された
「ありがとう……落ち着いた」
心配そうに髪を撫でる手を、光希は複雑な気持ちで眺めた。
「……あんまり触らないで。汗かいているし、汚いよ」
「
光希はゆるく首を振った。
できることなら風呂に入りたいが、今そんなことをしたら熱気で昏倒しかねない。
「……平気だから、ジュリはもういって」
「こんなに辛そうにしている光希を、置いていけませんよ」
彼は本当に善い看護人だ。ずっと付き添ってくれている。
けれども、治まらない吐き気に不安になる。このままだと、彼の目の前で粗相をしてしまいそうで怖かった。
「上半身だけでも、汗を拭きましょう。きっと気持ちいいですよ」
そういってジュリアスは汗で張りついたシャツのボタンを外し、濡らした柔布で肌を拭ってくれた。
「冷たくありませんか?」
「ううん……気持ちいい……」
はふはふと喘ぐ光希を見下ろして、ジュリアスは愁眉をさげた。
「かわいそうに。なかなか熱が引きませんね」
「目を閉じていても、目が回る……はぁ……」
「シィ」
ジュリアスは、息苦しそうに喘ぐ光希の瞼を掌で覆うと、熱をもった額に唇を押し当てた。
「……あまり、傍にいない方がいいよ……うつるかも」
切れ切れに光希が呟くと、ジュリアスは優しい手つきで黒髪を撫でた。
「私なら平気です。傍にいさせてください」
「でも、ジュリの前で、吐いたら……」
「大丈夫だから……そんな泣きそうな顔をしないで」
頬に優しいキスが落ちる。
慈しみに溢れた口づけに、光希の緊張は和らいだ。恐らく、前後不覚の酷い状態になったとしても、彼は光希に幻滅したりしないだろう。
「ごめん……」
「シィ。謝らなくていいから、楽にして」
朦朧として目を醒ます度に、ジュリアスが傍にいた。空が白み始める頃に目を醒まし、ふと隣を見ると椅子に座っているジュリアスと目があった。ずっと看病してくれていたのだろうか?
「目が醒めた? 気分は?」
「ジュリ……僕のことはいいから、休んで」
「平気ですよ。常人より遥かに頑丈ですから。何か、食事を用意させましょうか?」
力なく首を振ると、ジュリアスは心配そうな顔をした。
「まる二日、食事を取っていませんよ。一口だけでも、食べられませんか?」
思いだしたように、
ほっとしたようにほほえんだジュリアスは、背中にクッションを当てて、光希の身体を起こした。ナフィーサに卵粥を用意させると、部屋からさがらせて、手ずから給仕をする。
「自分で食べるよ」
「遠慮をしないで」
「……なんだか、嬉しそうだね」
光希の言葉に、ジュリアスは小さく目を瞠った。
「そんなことは……いえ、少しだけ嬉しいのかもしれません。貴方を独占できるから」
「何いってるの」
「本当ですよ。貴方ときたら、いつも人に囲まれて忙しそうにしているのだから。勤勉にもほどがあります」
頬をつつかれて、思わず笑みが零れた。
「だから、こんな時くらい世話をさせてください。ほら、口を開けて」
口元にスプーンを運ばれる。くすぐったいような、暖かい気持ちがこみあげて、光希は素直に口を開いた。
優しい味を咀嚼しながら、ふと遠い記憶が脳裏を
昔……日本で暮していた頃、熱をだして寝込むと、母は卵雑炊を作ってくれたものだ。林檎を擦りおろしたヨーグルトが好きだった。
「お腹いっぱい?」
目の前にスプーンがあることを思いだして、光希はもう一口だけ食べた。
「ごちそうさま、美味しかった……昔を思いだしたよ」
「昔?」
「アッサラームにくる前のこと……熱をだすと、こんな風に看病してくれたなぁって……」
遠い眼差しをする光希の髪を、ジュリアスは何もいわずに撫でた。
「ジュリは具合が悪い時はどうしていたの? 誰かが傍にいてくれた?」
「私?」
「うん」
「そうですね……病気とは違いますが、神力を持て余していた頃は、よくうなされていましたよ」
「誰も傍にいなかったの?」
「看護されたところで、どうにもなりませんし……」
「――はっ」
いい淀んだ言葉の先に気がついて、光希は小さく息を呑んだ。ジュリアスが神力を持て余していた頃といえば、頻繁に公宮へ渡っていた頃だ。
微妙な表情を浮かべている光希を見て、ジュリアスは少し慌てた。力なく垂れた手を両手で包みこみ、首を傾げる。光希はにやっと笑うと、その手を上からぺしりと叩いた。
「光希?」
「別に、もうとやかくいわないよ……昔は苦労していたんだね……」
光希は言葉の途中で目を閉じた。なんだか目が回る。糸が切れたようにクッションに沈みこむと、ジュリアスの身じろぐ気配がした。
「もう休んで」
「ん……ごめん、少し寝るね」
目を閉じたまま光希は返事をした。ジュリアスが枕の位置を調整してくれる。額に優しいキスを受けたあと、間もなく眠りの揺り籠に誘われた。