アッサラーム夜想曲
幕間 - 2 -
いとけない君
地上に落ちた、いとけない君。
オアシスで出会ってから、何度も野営地に連れていこうとしたが、その度に光希はかぶりを振って拒んだ。
彼はジュリアスの花嫁 だ。
安全に迎え入れる為にも、これまで以上に拠点を死守しなければならない。
一刻も早く戦局を見極めなければ――胸を引き裂かれるような苦しみに襲われながら、トゥーリオを光希の傍に置いて、ジュリアスは明け方にオアシスを発つ日々を繰り返した。
前線を固守しながら、将を集めて軍議を開き、スクワド砂漠の膠着状態を終わらせる為に、防衛の布陣を動かし全軍で攻め込む策を講じた。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍と違い、宿敵、サルビア・ハヌゥアビス軍は援軍が後を絶たない。どれだけ切り崩しても、母数の十万を削れない。
防衛一途ではこちらが消耗するばかり、疲弊に負けて、そう遠くないうちに切り崩されてしまう。いずれにせよ、決着の日は近かった。
陽が沈み、逸る心を押さえてオアシスへ翔ける。
飛竜から降りると、オアシスから小さな影がまろび出てきた。遠く闇夜の中でも、すぐに判る。
「ジュリ――ッ!」
手を大きく振りながら、ジュリアスの名を呼んで、真っ直ぐに駆けてくる。その奇跡の光景を目にして、ジュリアスは雨季のオアシスのように心が潤うのを感じた。
「コーキ!」
拡げた腕の中に、光希は勢いよく飛びこんできた。嬉しくて、つい加減を忘れそうなほど強く抱きしめてしまう。
「お帰りなさいっ!」
花が綻ぶような笑み。
「コーキ、今戻りました」
黒水晶のような瞳に見つめられると、呼吸を忘れそうになる。身体中の血が駆け巡り、甘やかな感情と、焔のような所有欲に胸締めつけられた。
(この人は、私のもの……)
白くまろい頬に手を伸ばすと、神秘的な黒い瞳は驚きに見開かれた。口づけを阻むように、ジュリアスの口を柔らかな掌で押さえる。赤子のようにふわふわした掌を吸うと、彼の唇から柔らかな吐息が漏れた。
いとし、いとけない君。
こんな風に触れるつもりは無かったのに、吸った肌のなんと甘いことか。色づく唇を吸ったら、どんな味がするのだろう……誘われるように顔を寄せると、小さな身体は慄 き震えた。
(怖い?)
安心させるようにほほえむと、コーキは肩にかけた厚布をずらし蜂蜜のような素肌を晒した。
小さくて、脆くて、柔らかな……輝くような裸体に魅入っていると、恐る恐る、といった風に上目遣いに問いかけられた。
「**、*****?」
残念ながら、彼の話す天上人の言葉は判らない。
何かを切々と訴えてくる……潤んだ瞳で見つめられると、誘われているのかと錯覚しそうになる。我慢できずに小さな鼻に口づけると、彼は烈しく狼狽えた。
(かわいい人だ)
ほほえまずにはいられない。虚を突いて唇を奪うと、小さな体にさっと緊張が走った。
怯えられると辛い。これ以上触れたら、嫌われてしまうかも――そう考えただけで、ジュリアスは心臓を鷲掴みにされた。
大袈裟ではなく、この人に嫌われたら生きていけない。
触れたい、味わいたい……覚えたばかりの強い欲望を、必死に抑え込まねばならなかった。
恐がらせないように。距離を測りながら。精一杯、紳士的に振る舞う。そうとは知らず、光希は無邪気に笑う。
彼は、とにかくかわいらしかった。
一番小さい隊服を着せても尚余る裾。不満そうに折り返し、調整する姿は十三の子供にしか見えない。
そもそも、成人の十三は超えているのだろうか?
いとけない君。
彼に好かれたい。どうか、ジュリアスのことを好きになって欲しい。生まれて初めて、誰かの心を希 う。
これが、恋。
何て自分勝手で、甘い感情なのだろう?
彼がジュリアスだけを見つめて、ほほえみ、唇を許してくれたら……どんなに素晴らしいだろう。
彼の気を惹きたくて、ジュリアスはこれまでにしたことのない真似をした。飴色の弦楽器、ラムーダを取り出して恋歌を披露してみせる。
「*****! ************。**************」
彼の反応は期待以上だった。黒い瞳を煌めかせ、手を叩いて喜んでくれた。
「ありがとう、コーキに喜んで貰えて嬉しい」
触れたそうにしている光希にラムーダを渡すと、彼はにっこりした。
「*********。********」
なんと天上人の歌を聞かせてくれた。弦を悪戯にかき鳴らし、軽やかな声で、陽気な節を口ずさむ。
心癒される歌声に至福を味わっていると、光希は肩を落として俯いた。郷愁に誘われてしまったようだ。
慰めを口実に背中から抱きしめると、柔らかな身体は背を預けるようにもたれた。
「**、*****……」
離れようとする身体を柔らかく引き留め、朱く染まった耳に唇で触れる。彼の困惑を宥めるように耳元で旋律を口ずさむと、すぐに大人しくなった。
(どこまで、許されるのだろう……)
探るように、柔らかな黒髪、耳に触れると、腕の中で小さな身体が震えた。離れようとする身体を、考えるよりも先に引き留めてしまう。強引な真似は――躊躇いつつ、露わになった首に顔をうずめて吸いついた。
「ッ……」
漏れ出る声も、蜂蜜色の肌も、酔いそうなほど甘い。
腕の中から逃げ出した光希は、星空のような瞳を見開いて、怯えたようにジュリアスを見つめていた。
(あぁ、言葉が判ればいいのに。溢れるほど、伝えたい想いがあるのに……)
いや、焦るものか――霞に手を伸ばす日々は終わったのだ。触れられる距離に、夢にまで見た我が花嫁がいる。
彼を大切にしよう。何よりも、どんなことよりも。
欲望を押しつけるのではなく、彼の信頼を勝ち得るのだ。その暁には、彼の全てが欲しい。
傍にいて手を出さずにいるのは辛い……相当な忍耐を要するだろう。だがジュリアスにとってそれは、とても甘美な試練に思えた。
オアシスで出会ってから、何度も野営地に連れていこうとしたが、その度に光希はかぶりを振って拒んだ。
彼はジュリアスの
安全に迎え入れる為にも、これまで以上に拠点を死守しなければならない。
一刻も早く戦局を見極めなければ――胸を引き裂かれるような苦しみに襲われながら、トゥーリオを光希の傍に置いて、ジュリアスは明け方にオアシスを発つ日々を繰り返した。
前線を固守しながら、将を集めて軍議を開き、スクワド砂漠の膠着状態を終わらせる為に、防衛の布陣を動かし全軍で攻め込む策を講じた。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍と違い、宿敵、サルビア・ハヌゥアビス軍は援軍が後を絶たない。どれだけ切り崩しても、母数の十万を削れない。
防衛一途ではこちらが消耗するばかり、疲弊に負けて、そう遠くないうちに切り崩されてしまう。いずれにせよ、決着の日は近かった。
陽が沈み、逸る心を押さえてオアシスへ翔ける。
飛竜から降りると、オアシスから小さな影がまろび出てきた。遠く闇夜の中でも、すぐに判る。
「ジュリ――ッ!」
手を大きく振りながら、ジュリアスの名を呼んで、真っ直ぐに駆けてくる。その奇跡の光景を目にして、ジュリアスは雨季のオアシスのように心が潤うのを感じた。
「コーキ!」
拡げた腕の中に、光希は勢いよく飛びこんできた。嬉しくて、つい加減を忘れそうなほど強く抱きしめてしまう。
「お帰りなさいっ!」
花が綻ぶような笑み。
「コーキ、今戻りました」
黒水晶のような瞳に見つめられると、呼吸を忘れそうになる。身体中の血が駆け巡り、甘やかな感情と、焔のような所有欲に胸締めつけられた。
(この人は、私のもの……)
白くまろい頬に手を伸ばすと、神秘的な黒い瞳は驚きに見開かれた。口づけを阻むように、ジュリアスの口を柔らかな掌で押さえる。赤子のようにふわふわした掌を吸うと、彼の唇から柔らかな吐息が漏れた。
いとし、いとけない君。
こんな風に触れるつもりは無かったのに、吸った肌のなんと甘いことか。色づく唇を吸ったら、どんな味がするのだろう……誘われるように顔を寄せると、小さな身体は
(怖い?)
安心させるようにほほえむと、コーキは肩にかけた厚布をずらし蜂蜜のような素肌を晒した。
小さくて、脆くて、柔らかな……輝くような裸体に魅入っていると、恐る恐る、といった風に上目遣いに問いかけられた。
「**、*****?」
残念ながら、彼の話す天上人の言葉は判らない。
何かを切々と訴えてくる……潤んだ瞳で見つめられると、誘われているのかと錯覚しそうになる。我慢できずに小さな鼻に口づけると、彼は烈しく狼狽えた。
(かわいい人だ)
ほほえまずにはいられない。虚を突いて唇を奪うと、小さな体にさっと緊張が走った。
怯えられると辛い。これ以上触れたら、嫌われてしまうかも――そう考えただけで、ジュリアスは心臓を鷲掴みにされた。
大袈裟ではなく、この人に嫌われたら生きていけない。
触れたい、味わいたい……覚えたばかりの強い欲望を、必死に抑え込まねばならなかった。
恐がらせないように。距離を測りながら。精一杯、紳士的に振る舞う。そうとは知らず、光希は無邪気に笑う。
彼は、とにかくかわいらしかった。
一番小さい隊服を着せても尚余る裾。不満そうに折り返し、調整する姿は十三の子供にしか見えない。
そもそも、成人の十三は超えているのだろうか?
いとけない君。
彼に好かれたい。どうか、ジュリアスのことを好きになって欲しい。生まれて初めて、誰かの心を
これが、恋。
何て自分勝手で、甘い感情なのだろう?
彼がジュリアスだけを見つめて、ほほえみ、唇を許してくれたら……どんなに素晴らしいだろう。
彼の気を惹きたくて、ジュリアスはこれまでにしたことのない真似をした。飴色の弦楽器、ラムーダを取り出して恋歌を披露してみせる。
「*****! ************。**************」
彼の反応は期待以上だった。黒い瞳を煌めかせ、手を叩いて喜んでくれた。
「ありがとう、コーキに喜んで貰えて嬉しい」
触れたそうにしている光希にラムーダを渡すと、彼はにっこりした。
「*********。********」
なんと天上人の歌を聞かせてくれた。弦を悪戯にかき鳴らし、軽やかな声で、陽気な節を口ずさむ。
心癒される歌声に至福を味わっていると、光希は肩を落として俯いた。郷愁に誘われてしまったようだ。
慰めを口実に背中から抱きしめると、柔らかな身体は背を預けるようにもたれた。
「**、*****……」
離れようとする身体を柔らかく引き留め、朱く染まった耳に唇で触れる。彼の困惑を宥めるように耳元で旋律を口ずさむと、すぐに大人しくなった。
(どこまで、許されるのだろう……)
探るように、柔らかな黒髪、耳に触れると、腕の中で小さな身体が震えた。離れようとする身体を、考えるよりも先に引き留めてしまう。強引な真似は――躊躇いつつ、露わになった首に顔をうずめて吸いついた。
「ッ……」
漏れ出る声も、蜂蜜色の肌も、酔いそうなほど甘い。
腕の中から逃げ出した光希は、星空のような瞳を見開いて、怯えたようにジュリアスを見つめていた。
(あぁ、言葉が判ればいいのに。溢れるほど、伝えたい想いがあるのに……)
いや、焦るものか――霞に手を伸ばす日々は終わったのだ。触れられる距離に、夢にまで見た我が花嫁がいる。
彼を大切にしよう。何よりも、どんなことよりも。
欲望を押しつけるのではなく、彼の信頼を勝ち得るのだ。その暁には、彼の全てが欲しい。
傍にいて手を出さずにいるのは辛い……相当な忍耐を要するだろう。だがジュリアスにとってそれは、とても甘美な試練に思えた。