アッサラーム夜想曲

ノーグロッジ海上防衛戦 - 6 -

 ― 『神威・四』 ―




 衝突から十五日目。
 ムーン・シャイターンにより深手を負ったハヌゥアビスは、しばらく前線から姿を消していたが、ようやく姿を現した。
 昼に差し掛かり、大きく布陣を動かしている最中、両軍にとって予測外のことが起きた。
 敵の前線に配置された奴隷部隊が、突如、アッサラーム軍に向かって突進を始めたのだ。

「準備は良いかぁっ! 金鼓きんこを鳴らせぇいッ!」

「――お待ちください!!」

 ヤシュムは敵がついに総攻撃をしかけてきたと思い、機動合図を叫んだが、ナディアはこれを止めた。サルビア軍らの数個騎兵大隊が不自然に動き、奴隷部隊の背を斬り捨てる光景を目の当たりにしたのだ。

「あれは逃亡兵です! 敵は統率が取れていない、間隙の編隊で!」

「よし判った!」

 言葉短い訴えであったが、ヤシュムはすぐに起動に応じた。
 ハヌゥアビスの大軍勢に、ほころびが見え始めている……!
 勝機を感じた前線の将兵は、すかさず左右に道を開いて逃亡兵達の為の退路を作った。逃走する奴隷兵は、戻れば味方の刃に斬られるので、決死の覚悟でこちらへ飛びこんでくる。
 アッサラーム陣営が敵奴隷兵を無視するのを見て、他の敵兵もこちらへ向かって逃走の機動を見せた。不利を悟ったサルビア軍は、ついに本物の全面衝突を始めざるをえなかった。

「行くぞ!」

 混乱に乗じてムーン・シャイターンが先頭を駆け出すと、左翼、右翼についた各将も後に続いた。敵の前線が乱れているうちに、ナディアも迷わず敵陣営を襲った。
 ハヌゥアビスは真っ直ぐに、ムーン・シャイターンを目掛けて駆けた。
 互いに盾は使わない。
 剣を交えた瞬間、青白い衝撃波が波紋のように広がり、周囲にいた騎馬隊を薙ぎ払った。

「身を低くしろ!」

 ヤシュムの鋭い怒号に、全員がすかさず身を屈め、あるいは塹壕ざんごうに姿を隠した。
 総大将同士の一騎打ちは、苛烈の一言に尽きる――
 空は割れて、大地は揺れた。
 ハヌゥアビスの操る重たいブレードを、ムーン・シャイターンは青い炎を纏うサーベルで、しなやかに受け流してる。
 その度に金色の火花が散り、鋼が砕けるような衝撃音が鳴った。音だけ聞いていると、とても剣の打ち合いとは思えない。
 息をつく間もない神懸かむがりの剣戟けんげきを前に、懇願するようにシャイターンに呼びかけていた。
 シャイターンッ! どうか天の加護を……!!
 瞬閃。ムーン・シャイターンが一撃を受けて、肩を押さえた瞬間――考えるよりも先に駆け出していた。ナディアだけでなく、他の将兵も、ヤシュムも駆け出した。
 膝をついたムーン・シャイターンの肩を、ハヌゥアビスが容赦なく蹴り上げる。

「止せっ!!」

 肩から血を流し、崩れ落ちるムーン・シャイターンに向かって、巨大なブレードを振り上げる――。

「――っ!!」

 その瞬間、時が止まったかのように感じられた。

 示し合わせたわけでもなく、ムーン・シャイターンを守ろうと駆けつけた将兵らは、瞬時に盾を取り密集陣形を取った。
 ムーン・シャイターンの意識は落ちていた。
 力の入らない主君の身体を抱えるナディアを、味方が後ろへ追いやる。
 神力を帯びた巨大なブレードが振り下ろされると、盾を持つ全員が歯を食いしばって衝撃に耐えた。
 ドゴォッ!!
 火花を散らし、轟音と共に鋼の破片が飛び散る。
 重たい斬撃は、硬い鋼の盾にひびを入れ、盾を持つ者の指や腕を砕いた。

「ぐぁっ」
「守れっ!!」

 鈍い悲鳴を上げながらも、全員が盾を持ち直して、再びムーン・シャイターンの前に巨大な盾を築いた。
 構えた傍から、ハヌゥアビスの恐ろしい斬撃が飛んでくる!
 重たい衝撃に、味方は再度吹き飛ばされた。

「うぐっ」
「守れぇっ!!」

 盾が壊れても、骨が砕けても、誰一人盾を離さなかった。身を挺して、死にもの狂いでムーン・シャイターンの盾となる。
 ナディアが後退しようとした時、ムーン・シャイターンはふっと意識を取り戻した。
 顔を上げて何かを呟く――重傷を負ったとは思えない、素早い動きで立ち上がった。

「お待ちを――っ!」

 手を伸ばしたが、届かなかった。
 ムーン・シャイターンは両手でサーベルを握りしめて、味方の盾から勢いよく飛び出した。ハヌゥアビスも剣を構え、双方、大きく振り上げる。
 その瞬間、天を割って巨大な雷が地上に、ムーン・シャイターンの振り上げる剣尖けんせんに落ちた。強大な落雷を刀身に受けたまま、勢いよく振り下ろす――
 強烈な一撃は、ハヌゥアビスを重たいブレードごと二つに裂いた。
 全員が息を呑んだ。
 ハヌゥアビスの額にある赤い宝石が、四方に砕け散る――ハヌゥアビスの姿は、黒い霧となり周囲に消えた。

「ナディア! ムーン・シャイターンをお連れしろ!」

 ヤシュムの声に、我に返ったナディアは、すぐにムーン・シャイターンの傍へ駆け寄った。
 重傷を負い、今にも崩れ落ちそうな身体を支えようとしたが、ムーン・シャイターンは気丈にも顔を上げて青く光るサーベルを高く掲げた。

「「オォォ――ッ」」

 割れるような喝采が味方陣営から湧き起こった。ナディアも胸を熱くさせて腕を上げた。
 お見事! よくぞ! ついに……ハヌゥアビスに決勝したのだ!!
 総大将を討ち取られ、戦意をくじかれたサルビア軍は、失意のもとに撤退を始めた。
 アッサラーム軍もしばらく追討の姿勢を見せたが、深追いはせず、早々に自陣へと引き上げた。
 撤退を心得た敵将が指揮を執ったこともあり、掃討戦は長引かず、その日のうちに敵陣営は、高地から目に見えぬ所まで下がった。
 遠ざかって行く朱金の軍旗を高地から眺めながら、アッサラームの全将兵は歓声を上げた――