アッサラーム夜想曲
花冠の競竜杯 - 8 -
ここ数日、ジュリアスが軍舎から帰ってこない。
競竜杯で忙しくしているようだが、きちんと休めているのだろうか? 今夜も戻らないと言伝を聞いて、光希は彼の執務室まで差し入れを持っていくことにした。
厨房に立ち、籐 の籠に食料を積めていく光希の様子を、ナフィーサを始めとする厨房の召使達はそわそわしながら見守っている。自分のやるべき仕事を、主にやらせていると感じて落ち着かないようだ。
「できた!」
光希が顔をあげると、ナフィーサはようやく仕事ができることを喜び、笑顔になった。籐の籠に足りないものはないか確認したり、真鍮の瓶に紅茶を注いだりと細やかな気配りをみせる。
「ありがとう」
光希が笑顔でいうと、ナフィーサはほほえんだ。
「我が喜びです。シャイターンもきっとお喜びになるでしょう」
「だといいな」
「殿下の訪 いを、喜ばないはずがありませんよ」
「約束しているわけじゃないから、もしかしたら会えないかも」
ナフィーサは、そんな馬鹿な、という顔をした。光希は苦笑いを浮かべて頷いた。
「まぁ、いってくるよ」
一通りの準備が整うと、家の者は玄関まで光希を見送りにやってきた。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
ナフィーサが一礼する後ろで、召使達は床に伏せるようにして額づいている。
彼等に見送られて、光希は護衛のルスタムと共に軍部へ向かった。
夜闇を、火柱の高い烽火が照らしている。
壮観な石造りの建物は黄金色に縁取られ、滑走場に入ってきた馬車を見下ろしているようだった。
門扉 に立つ衛兵は、光希の紋章の入った馬車を見て、慌てたように駆けてきた。
彼等に馬車を預けると、光希は中へ入り、日頃は上らない階段におずおずと足をかけた。
軍部の三階より上は将校専用である。軍階級では下っ端にあたる光希が、上にいくことは滅多にない。
上へいくにつれて内装も豪華になり、光沢のある高い石壁には、軍の紋章を意匠された垂れ布がかけられ、床には金糸で織られた猩々緋 の絨毯が延々と敷かれている。
当然なのだが、すれ違う者達は丈の長い上着を羽織った将校ばかりで、光希はいつになく緊張した。実は彼等の方が緊張しているのだが、光希は判っていなかった。
控えの間に入ると、ジュリアスの近衛が光希を見て目を丸くした。
「これは、殿下」
「こんばんは。あの、ジュリに会えますか?」
「もちろんです。どうぞお入りください」
すんなりと奥へ通され、光希は安堵に胸を撫でおろした。黄金の縁取りをされた扉の前で足を止めると、控えめに扉を叩く。
「はい」
短い返答。光希がおずおずと呼びかけると、すぐに席を立つ気配がした。
扉を開いたジュリアスは、光希を見て驚いた表情を浮かべた。
「光希? どうかしましたか?」
「差し入れを持ってきたんだ。入ってもいい?」
光希の顔と手に持っている籠を交互に見て、ジュリアスの顔に喜びが拡がった。
「もちろんですよ。どうぞ入って」
光希が中へ入るのを見守り、ルスタムは軽く会釈してから扉を閉めた。
二人きりになる。光希は窓辺に寄ると、絨毯の上に、厚手の琥珀 織りの敷布を広げた。その上に真鍮の皿を置いて、卵に干果物、蜂蜜、蒸した鶏肉や野菜をのせる。
「美味しそうですね」
「うん。ナフィーサが手伝ってくれたんだ。お腹空いている?」
「ええ」
「ちゃんと食べている?」
「朝は食べていますよ」
「夜も食べないと駄目だよ。さ、どうぞ」
光希が絨毯の上を叩くと、ジュリアスは素直に隣に座り、食べ始めた。
「忙しそうだけど、ちゃんと眠っている?」
「仮眠は取っていますよ」
光希は真鍮の容器から暖かい紅茶を煎れて、ジュリアスに手渡した。彼は一口飲むと、深く息を吸いこみ、寛いだ様子になった。
「棗椰子 のお菓子もあるよ」
乾燥させた棗椰子に胡桃を挟んで焼いたもので、まだ暖かい。仄かな甘みの優しい味わいで、光希の大好物でもある。
「焼き立てで美味しいよ」
光希が指で摘まんでジュリアスの口まで運ぶと、彼は上体を屈めて素直に口を開いた。
「美味しい?」
笑みかけると、ジュリアスもつられたように笑みを零した。
「美味しいです」
大分肩の力が抜けたように見える。
ジュリアスが食事をする隣で、光希も果物や焼菓子を頬張った。
食事を終えたあと、光希はジュリアスの後ろに立ち、肩を揉んでやろうと思ったが、豪華な肩章が邪魔だった。
「上着脱いで」
「今?」
「うん」
ジュリアスは不思議そうにしながら、釦を外していく。上着を脱いで、絨毯の上に置いた。
光希が膝立ちになって肩を揉み始めると、ジュリアスは身体から力を抜いた。光希は肘でつぼを押しながら、俯いている顔を覗きこんだ。
「気持ちいい?」
「ええ、とても。上手ですね」
「ふふん。今どんなことを調べているの?」
「ポルカ・ラセに関して、いろいろと調査しているところです」
「いろいろって?」
「経営に不審な点はないか、警備に問題はないか、従業員や、出入りする客の身元などの調査です」
「ふぅん……大丈夫そう? おかしな点はあった?」
ジュリアスはくすっと笑った。
「何?」
「いえ、さくさく訊いてきますね。一応、公表を控えている、重要機密を取り扱っているのですが」
「まずいなら、答えなくていいよ」
「詳しくはいえませんが、概ね順調ですよ。今のところ予定に遅れはありません」
「本当? いつまでこんなに忙しいの?」
ジュリアスは肩を叩く手を取って引っ張ると、自分の膝の上に光希を横向きにして座らせた。
「ポルカ・ラセで投票券が発売されたら、もう少し楽になります」
「……そう」
美貌が近づいてきて、光希は落ち着かなさそうに視線を泳がせた。
「ジュリ、ここは――」
抑制の声は唇に封じられた。光希はすぐさま膝から降りようとしたが、きつく抱きすくめられて、抗うのをやめた。
「ん……」
躊躇いがちにジュリアスの肩に手を置くと、口づけは更に深くなった。優しく、でも有無をいわせぬ強さで舌が入ってくる。紅茶の味がする。身体から力が抜けて、ぐったりもたれる光希を、ジュリアスは腕に抱きとめた。
ジュリアスは何度も光希の唇を貪った。身体の昂りが際どくなったところで、どうにか自制して身体を引いた。光希の瞳はとろんとしている。腫れぼったい唇にしばらく視線を留めてから、
「……焼き菓子も紅茶も美味しいけれど、それよりも私は、光希を食べたい」
深みがあって、色気を感じさせる声で囁いた。光希はさっと朱くなると、めっという顔でジュリアスを睨んだ。
「そう思うなら、ちゃんと帰ってきてよ」
その愛情に満ちた表情を見て、ジュリアスは危うく襲いかかりそうになった。
「……もう少ししたら帰ります。起きて待っていてくれますか?」
意図を察して光希は朱くなった。食器を片づる手を休めると、はにかんだ笑みをみせた。
「うん、じゃあ工房で作業しているね」
胸が温まるのを感じながら、ジュリアスはほほえんだ。
「ありがとうございます」
「ううん。それじゃ、またあとで……頑張ってね」
「はい」
目と目があい、惹かれ合う引力が働く。後ろ髪を引かれる想いで、光希は部屋の扉を閉めた。
部屋に静寂が流れる。
残されたジュリアスは、全ての音が消えて、温度まで下がったように感じられた。
(さっさと片づけてしまおう)
額にかかる金髪をかきあげながら席に戻り、途中まで読んでいた書類に目を落とした。
誘致先の一つ、ツァイリを巡察しているユニヴァースから届いた、競竜杯の選手に関する報告書だ。
クシャラナムン財団が、選手に金を握らせて勝敗を操作しようとしているらしい。他の巡視隊からも、同じような報告が届いている。
ジュリアスは椅子に寄りかかって考えこんだ。
誘致先の有権者に、財団関係者が接触しているらしい……気になるのは、その幾人かが決して表だっては公表されていない、アッサラーム内部の者しか知りえない要人であることだ。
(内通者か)
諜報はどこにでも紛れているものだが、競竜杯を妨害されるわけにはいかない。
遊戯場の誘致では介入を退けたが、執念深い連中だ。アッサラームの治安を乱すようなら容赦はすまい――ジュリアスはクシャラナムン財団の名を記された書面を鋭く睨んだ。
競竜杯で忙しくしているようだが、きちんと休めているのだろうか? 今夜も戻らないと言伝を聞いて、光希は彼の執務室まで差し入れを持っていくことにした。
厨房に立ち、
「できた!」
光希が顔をあげると、ナフィーサはようやく仕事ができることを喜び、笑顔になった。籐の籠に足りないものはないか確認したり、真鍮の瓶に紅茶を注いだりと細やかな気配りをみせる。
「ありがとう」
光希が笑顔でいうと、ナフィーサはほほえんだ。
「我が喜びです。シャイターンもきっとお喜びになるでしょう」
「だといいな」
「殿下の
「約束しているわけじゃないから、もしかしたら会えないかも」
ナフィーサは、そんな馬鹿な、という顔をした。光希は苦笑いを浮かべて頷いた。
「まぁ、いってくるよ」
一通りの準備が整うと、家の者は玄関まで光希を見送りにやってきた。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
ナフィーサが一礼する後ろで、召使達は床に伏せるようにして額づいている。
彼等に見送られて、光希は護衛のルスタムと共に軍部へ向かった。
夜闇を、火柱の高い烽火が照らしている。
壮観な石造りの建物は黄金色に縁取られ、滑走場に入ってきた馬車を見下ろしているようだった。
彼等に馬車を預けると、光希は中へ入り、日頃は上らない階段におずおずと足をかけた。
軍部の三階より上は将校専用である。軍階級では下っ端にあたる光希が、上にいくことは滅多にない。
上へいくにつれて内装も豪華になり、光沢のある高い石壁には、軍の紋章を意匠された垂れ布がかけられ、床には金糸で織られた
当然なのだが、すれ違う者達は丈の長い上着を羽織った将校ばかりで、光希はいつになく緊張した。実は彼等の方が緊張しているのだが、光希は判っていなかった。
控えの間に入ると、ジュリアスの近衛が光希を見て目を丸くした。
「これは、殿下」
「こんばんは。あの、ジュリに会えますか?」
「もちろんです。どうぞお入りください」
すんなりと奥へ通され、光希は安堵に胸を撫でおろした。黄金の縁取りをされた扉の前で足を止めると、控えめに扉を叩く。
「はい」
短い返答。光希がおずおずと呼びかけると、すぐに席を立つ気配がした。
扉を開いたジュリアスは、光希を見て驚いた表情を浮かべた。
「光希? どうかしましたか?」
「差し入れを持ってきたんだ。入ってもいい?」
光希の顔と手に持っている籠を交互に見て、ジュリアスの顔に喜びが拡がった。
「もちろんですよ。どうぞ入って」
光希が中へ入るのを見守り、ルスタムは軽く会釈してから扉を閉めた。
二人きりになる。光希は窓辺に寄ると、絨毯の上に、厚手の
「美味しそうですね」
「うん。ナフィーサが手伝ってくれたんだ。お腹空いている?」
「ええ」
「ちゃんと食べている?」
「朝は食べていますよ」
「夜も食べないと駄目だよ。さ、どうぞ」
光希が絨毯の上を叩くと、ジュリアスは素直に隣に座り、食べ始めた。
「忙しそうだけど、ちゃんと眠っている?」
「仮眠は取っていますよ」
光希は真鍮の容器から暖かい紅茶を煎れて、ジュリアスに手渡した。彼は一口飲むと、深く息を吸いこみ、寛いだ様子になった。
「
乾燥させた棗椰子に胡桃を挟んで焼いたもので、まだ暖かい。仄かな甘みの優しい味わいで、光希の大好物でもある。
「焼き立てで美味しいよ」
光希が指で摘まんでジュリアスの口まで運ぶと、彼は上体を屈めて素直に口を開いた。
「美味しい?」
笑みかけると、ジュリアスもつられたように笑みを零した。
「美味しいです」
大分肩の力が抜けたように見える。
ジュリアスが食事をする隣で、光希も果物や焼菓子を頬張った。
食事を終えたあと、光希はジュリアスの後ろに立ち、肩を揉んでやろうと思ったが、豪華な肩章が邪魔だった。
「上着脱いで」
「今?」
「うん」
ジュリアスは不思議そうにしながら、釦を外していく。上着を脱いで、絨毯の上に置いた。
光希が膝立ちになって肩を揉み始めると、ジュリアスは身体から力を抜いた。光希は肘でつぼを押しながら、俯いている顔を覗きこんだ。
「気持ちいい?」
「ええ、とても。上手ですね」
「ふふん。今どんなことを調べているの?」
「ポルカ・ラセに関して、いろいろと調査しているところです」
「いろいろって?」
「経営に不審な点はないか、警備に問題はないか、従業員や、出入りする客の身元などの調査です」
「ふぅん……大丈夫そう? おかしな点はあった?」
ジュリアスはくすっと笑った。
「何?」
「いえ、さくさく訊いてきますね。一応、公表を控えている、重要機密を取り扱っているのですが」
「まずいなら、答えなくていいよ」
「詳しくはいえませんが、概ね順調ですよ。今のところ予定に遅れはありません」
「本当? いつまでこんなに忙しいの?」
ジュリアスは肩を叩く手を取って引っ張ると、自分の膝の上に光希を横向きにして座らせた。
「ポルカ・ラセで投票券が発売されたら、もう少し楽になります」
「……そう」
美貌が近づいてきて、光希は落ち着かなさそうに視線を泳がせた。
「ジュリ、ここは――」
抑制の声は唇に封じられた。光希はすぐさま膝から降りようとしたが、きつく抱きすくめられて、抗うのをやめた。
「ん……」
躊躇いがちにジュリアスの肩に手を置くと、口づけは更に深くなった。優しく、でも有無をいわせぬ強さで舌が入ってくる。紅茶の味がする。身体から力が抜けて、ぐったりもたれる光希を、ジュリアスは腕に抱きとめた。
ジュリアスは何度も光希の唇を貪った。身体の昂りが際どくなったところで、どうにか自制して身体を引いた。光希の瞳はとろんとしている。腫れぼったい唇にしばらく視線を留めてから、
「……焼き菓子も紅茶も美味しいけれど、それよりも私は、光希を食べたい」
深みがあって、色気を感じさせる声で囁いた。光希はさっと朱くなると、めっという顔でジュリアスを睨んだ。
「そう思うなら、ちゃんと帰ってきてよ」
その愛情に満ちた表情を見て、ジュリアスは危うく襲いかかりそうになった。
「……もう少ししたら帰ります。起きて待っていてくれますか?」
意図を察して光希は朱くなった。食器を片づる手を休めると、はにかんだ笑みをみせた。
「うん、じゃあ工房で作業しているね」
胸が温まるのを感じながら、ジュリアスはほほえんだ。
「ありがとうございます」
「ううん。それじゃ、またあとで……頑張ってね」
「はい」
目と目があい、惹かれ合う引力が働く。後ろ髪を引かれる想いで、光希は部屋の扉を閉めた。
部屋に静寂が流れる。
残されたジュリアスは、全ての音が消えて、温度まで下がったように感じられた。
(さっさと片づけてしまおう)
額にかかる金髪をかきあげながら席に戻り、途中まで読んでいた書類に目を落とした。
誘致先の一つ、ツァイリを巡察しているユニヴァースから届いた、競竜杯の選手に関する報告書だ。
クシャラナムン財団が、選手に金を握らせて勝敗を操作しようとしているらしい。他の巡視隊からも、同じような報告が届いている。
ジュリアスは椅子に寄りかかって考えこんだ。
誘致先の有権者に、財団関係者が接触しているらしい……気になるのは、その幾人かが決して表だっては公表されていない、アッサラーム内部の者しか知りえない要人であることだ。
(内通者か)
諜報はどこにでも紛れているものだが、競竜杯を妨害されるわけにはいかない。
遊戯場の誘致では介入を退けたが、執念深い連中だ。アッサラームの治安を乱すようなら容赦はすまい――ジュリアスはクシャラナムン財団の名を記された書面を鋭く睨んだ。