アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 5 -

 晴れた日である。
 賭博遊戯の行方を巡って宮廷評議会が紛糾している頃、同じ宮殿の一角、様式美あふれる整形庭園の棕櫚しゅろの大樹の下で、光希はアンジェリカと紅茶を飲んでいた。
 穏やかな光景だ。
 整然と刈り込まれた芝生に、白塗りの錬鉄家具が鮮やかに映えている。辺りには花壇のジャスミンが香り、頭上に生い茂る緑の天蓋にされた陽は、柔らかな木漏れ陽を、心地よいひと時を愉しむ二人の上に落としていた。
 光希は仕事の休憩中で、アンジェリカは父のアマハノフを待っているところだ。アマハノフはジュリアスと共に評議会に出席しているのである。
 カップを卓に置き、そういえば、とアンジェリカは思い出したようにいった。
「今度、ポルカ・ラセで公式賭博を祝して大夜会が開かれますでしょう」
「そうだね」
 光希が頷くと、アンジェリカは目を輝かせた。
「殿下はいかれるんですの?」
「うん。ジュリと出席する予定」
「羨ましいですわ」
「アンジェリカはいかないの?」
「お父様が許してくださいませんの。未婚前の淑女にはふさわしくないからって」
 ポルカ・ラセは賭博遊戯を提供するだけでなく、高級娼婦との戯れも提供している。性愛にふけりたい高貴な紳士淑女たちが大勢集うのである。
「残念だね。ナディアと結婚したら、連れていってもらうといいよ」
 なにげなく口にした光希は、アンジェリカの翳った表情を見て、頬杖をほどいた。
「どうかした?」
「……実は、婚約を解消したんですの」
「えっ」
 光希は真鍮の燭台で殴られたような衝撃を覚えた。その驚愕の表情を見て、アンジェリカは痛ましげな笑みを浮かべた。
「もっと早く、解消するべきだったのですけれど、決心がつかなくて」
 卓の上に置いた手が、幽かに震えている。光希は殆ど無意識に、細い指先の上に自分の手を重ねた。
「……本当に? え、いつ?」
「公表はこれからです。でも、ずっと前からお話しはうかがっていましたの。お父様もナディア様も、私が落ち着くのを待っていてくださったのですわ」
「本当なのか……二人はいつか、結婚するのだろうと思っていたのに」
 アンジェリカは唇を噛みしめた。ゆっくり顔をあげると、ほろ苦い笑みを口元に刻んだ。
「私の幼い夢でした。どれだけ想っても、ナディア様は兄が妹に気を揉むような想いしかくださらないの」
「アンジェリカは大切に想われているよ」
「判っていますわ。でもナディア様は、イブリフ様のように神殿楽師シャトーアーマルになることを望んでいらっしゃるのですもの。お止めできませんでしたわ」
 諦めと哀切の滲んだ瞳を見て、光希の胸は痛んだ。
 神官は神殿騎士や宝石もちは例外として、基本的に結婚は許されない。神に仕える最前衛として、生涯祈りと労働を捧げるのだ。ナディアが決めたことなら仕方ないが、彼女が今の言葉を口にするまで、どれほど苦悩し、涙を流したことだろう?
「……本当に好きでしたの」
「うん」
「本当に、本当に好きでしたのよ」
「うん……知っているよ」
 アンジェリカは戦慄わななく唇を噛みしめ、空を仰いだ。滲んだ涙をやり過ごして、ため息を吐く。
「ナディア様を諦めるのだと思うと、胸が張り裂けそうでしたわ。何日も生ける屍のような気分でした」
「アンジェリカ……」
「この先きっともう、彼以上には誰のことも好きになれないわ」
 光希は、かける言葉が見つからなかった。ただアンジェリカの手をずっと握っていた。彼女も外そうとはせず、しばらくじっとしていた。
 やがて、アンジェリカの方から空気を変えるように、笑みを浮かべた。
「いけませんわね。すぐ自己憐憫に陥ってしまうの。しっかりしなさいって自分にいい聞かせてばかり」
「……無理もないよ」
「ね、殿下。ポルカ・ラセの感想を、ぜひお聞かせくださいね」
 握っていた手を、逆にアンジェリカに握られた。たとえ空元気でも、彼女の頬に色が射すのを見て、光希もほほえんだ。
「判った、よく見ておくよ。競竜杯は観にいけるの?」
「ええ、お父様と一緒に観にいきますわ」
 嬉しそうに話すアンジェリカを見て、光希は少し安堵した。
 明るく朗らかな彼女を愛し、慰める者は大勢いるだろう。アマハノフもその一人だ。彼女が父を敬愛しているように、彼もまた娘であるアンジェリカを心から想っている。
「アンジェリカの話も今度聞かせてね」
「ええ! もちろんですわ」
 ほほえみあっていると、アンジェリカは閃いたように瞳を瞠った。
「そうそう、殿下にお土産がありますの」
「お土産?」
 アンジェリカは金鎖のついた斜め掛けの鞄から、淡い色の布にくるまった包みを取り出した。
「ルシアン兄様が、外来の品々を贈ってくれましたの。おすそ分けですわ」
 そういって、綺麗な便箋を広げてみせる。
「へー、綺麗だね」
「宮廷で恋文が大流行していますでしょう。殿下も、先日は恋文大会に参戦したとお聴きしましたわ」
「よく知っているね」
「うふふ。私も聞いてみたかったですわ」
「ははは……」
 光希は乾いた笑みを浮かべた。彼女こそが流行のきっかけなのだが、本人は露知らず。
 発端は、ケイトに恋文を書いたスヴェンを、光希が思わぬ形で庇ったことだが、そもそもスヴェンに恋文の助言をしたのは、アンジェリカ流の憂さ晴らし方法を以前に聞いていたからだ。
 まだありますのよ、とアンジェリカはごそごそ鞄を漁り、流行の情報誌を引っ張り出した。
「競竜杯の特集記事ですわ。もうご覧になって?」
「いや、知らない」
 中を捲ってみると、アルスランの全身姿絵が描かれていた。
「おっ、アルスランだ」
 本人をそのまま写したかのような、繊細美妙な筆遣いで、凛々しく描かれている。
 彼は西大陸が誇る最高最速の乗り手、アッサラーム代表の騎手であり、競竜杯の優勝最有力候補なのだ。
 感心しきりで凝視する光希の様子に、アンジェリカは笑みを浮かべた。
「私は家にもう一冊ありますから。良ければさしあげますわ」
「ありがとう!」
 光希が破顔すると、アンジェリカも嬉しそうに笑った。
「お土産は、もう一つありますの」
 そういって、今度は小さな小瓶を卓に置いた。
「これは?」
「滋養飲料ですわ。これはアガサ兄様がくださったの……なんでも疲労回復によく効くとか」
「へぇ~、ありがとう。それじゃあ、今度疲れてたと思ったら飲んでみる」
「ええ、そうしてくださいませ」
 笑いあっていると、庭園の方に二人の男性が近づいてきた。アマハノフとジュリアスである。
 ぱっと席を立ってお辞儀をするアンジェリカにならって、光希も席を立った。ジュリアスに笑いかけてから、アマハノフに敬礼をする。
 アマハノフは恭しい宮廷挨拶で応えると、卓の傍に寄り、広げられた包みを見て苦笑を零した。
「こんにちは、殿下。娘からまた何か押しつけられましたかな?」
 アンジェリカは拗ねたようにアマハノフを見ると、お土産ですわ、と反論した。
 光希がジュリアスを見ると、青い双眸が細められた。軽く肩を抱き寄せ、光希の髪に口づける。
「楽しそうなお茶会ですね」
「うん。たくさんお土産をもらったよ」
 光希は抱擁をほどくと、包みを指して笑った。ジュリアスは情報誌を捲ると、アルスランの絵を見て口角を上げた。アンジェリカに感じの良い笑みを向ける。
「ありがとうございます、アンジェリカ姫」
「いいえ! とても楽しいひとときでした。お相手してくださってありがとうございました、殿下」
「僕も楽しかったよ。今度は僕もお土産を持ってくるね」
 ほほえみ合う二人の間を、爽やかな風が流れる。行き交う暖かな心には、月日を重ねた絆と変わらぬ友情があった。
 アンジェリカとアマハノフが去ったあと、ジュリアスは空いた席に座った。情報誌を捲りながら、光希の手を取り、自分の頬や唇に押し当てている。無意識にしているらしく、文字を目で追いかけながら、光希の指先で遊んでいる。
「……ねぇ、ジュリ」
「ん?」
 ジュリアスは紙面から顔をあげると、光希を見て首を傾げた。
 光希は躊躇った。アンジェリカとナディアのことを訊いてみたいが、彼女は公表はこれからだと話していた。
「光希?」
「……ううん、なんでもない」
 彼の方から口にするまでは、訊かずにおこう――心に決めると、光希は話題を変えた。
「この雑誌、皆にも見せてあげよう。明日の昼、三階の休憩室に持っていくよ」
 ジュリアスは瞳に悪戯めいた光を灯した。
「アルスランの反応が見物ですね」
「だよね。ジュリも時間があればきて」
「判りました。ところで、これは?」
 小瓶を指してジュリアスは訊ねた。ああ、それ? と光希は頷く。
「滋養剤みたい。疲れた時に呑むと、元気になるんだよ」
「また怪しげなものを……」
 小瓶を手にとり、めつすがめつ眺めるジュリアスを見て、光希は苦笑を浮かべた。
「そんなことないよ、滋養剤は一般的なものだよ」
 疑わしそうに瓶を睨むジュリアスの手から、光希はそれを取り返した。
「さてと、僕もそろそろ戻らないと……」
 席を立つと、ジュリアスに肘をとられて、大樹の幹に背を押しあてられた。光希の顔の横に手をついて、自分の身体で隠すようにして覆い被さってきた。
「ジュリ?」
 彼は答えずに、艶めいた表情で光希を見下ろしてくる。
「外だから……」
 困ったようにいいながら、光希はジュリアスの上着の前に手を滑らせ、無意識にジュリアスを悩ませた。
「光希」
 顎に指をかけられ、逸らした視線を呼び戻される。待って、小さな抗議は唇の中に消えた。
 優しく唇を触れ合わせるうちに、光希は身体の力が抜けていくのを感じた。
 顔を離しても、ジュリアスの息遣いが傍に感じられて、光希は顔をあげることができなかった。濡れた唇を親指で拭われる。
「……僕、もういかないと」
 思いきって顔をあげると、熱っぽい瞳をしているジュリアスのなめらかな頬に、かすめるようにして唇を押し当てた。虚を突かれた顔を見て、光希は小さく笑った。
「あとでね」
 ジュリアスはくすっと笑うと、少し身体を離した。光希の手をとり、甲に恭しく唇を押し当てる。
「そうしましょう。これ以上傍にいたら、本当に離せなくなりそうだから」
 秘めやかで親密な空気をほどいて、二人は木陰の外へ出た。光希は少し朱い顔でジュリアスの隣に並び、軍部に向かって歩き始めた。