アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 36 -

 ジュリアスは、絶命した男を見下ろし、刃を振って血を払い落した。刀身を拭って鞘に戻すと、ヤシュムとアルスランが駆け寄ってきた。
「お見事!」
 ヤシュムが労う。
「お怪我は!?」
 案じるアルスランの声に、ジュリアスは軽く頷き、二人の全身を眺めまわした。
「問題ありません。二人は……大丈夫そうですね」
「若いのが何人かやられたが、こっちも片付いていますよ」
 ヤシュムはアルスランの肩をぽんと叩きながら答えた。
「ご苦労様です」
「ところで、こいつさっき、ばかでかい槍を手で壊したんですよ。大した鋼腕だと思いませんか」
 磊落らいらくに笑うヤシュムの言葉に、ジュリアスはアルスランの腕に目をやった。
「そのような真似をして、流石に負荷がかかったのではありませんか?」
「平気です。殿下のおかげで、前よりも飛竜に乗るのが楽になったくらいですよ」
 自信に満ちた表情でアルスランがほほえむと、ジュリアスも小さく笑った。
「競竜杯は期待できそうですね」
「そうしてください。そういえば、花冠の授与を許可してくださって、ありがとうございます」
「花冠?」
「はい、俺が優勝した時は、花冠の授与を殿下がしてくださると……ご存知ではありませんか?」
「知りませんでした。なぜ、光希に?」
 硬度の増した視線を受けとめて、アルスランは居住まいを正した。
「は、こうして競竜杯に出場できるのも、全て殿下のおかげと思い、恐れながらお願いした次第であります」
「そうですか」
 ジュリアスは素っ気なく答えて、押し黙った。継ぐべき言葉を探しあぐねて沈黙するアルスランを長いこと見つめ、やがてその凝視に耐え切れず、鋼腕の青年はそわそわし始めた。
 一人、状況を楽しんでいたヤシュムは、アルスランの刻々と削られていく精神を慮る気を起こしたのか、視線を彷徨わせ、何かを見つけたように目を瞠ると、
「ナディア! こっちにこい!」
 現場の閲兵えっぺいをしていたナディアを大声で呼びつけた。彼はアーヒムの指示で後方支援に駆けつけ、たった今合流したところだった。
 傍へやってきたナディアは、ヤシュム達の寛いだ様子を見て、安堵に表情を和らげた。
「ご無事でしたか。片はついたようですね」
「おう、そっちもご苦労さん。うちの総大将が血まみれなんだ、なんとかしてやってくれ」
 その言葉に、全員がジュリアスを見た。彼自身も己の恰好を見下ろし、納得せざるをえなかった。返り血を浴びていて修羅のような有様だ。血を吸った上着の裾からは、赤い滴が今も垂れている……こんな格好で戻ったら、光希を酷く怯えさせてしまう。
 上着を脱いだジュリアスに、すかさずナディアが清潔な亜麻布を差し出した。
「お使いください」
「ありがとう」
 しかし、受け取った亜麻布で顔を拭うと、ナディア達は微妙な顔つきになった。
「……総大将、せっかくの美貌が台無しですよ。まるで殺人鬼だ」
 綺麗にするどころか、血が薄く伸びて悪化してしまったらしい。川で洗い流そうかとジュリアスは考えたが、
「湯を持ってきます。少しお待ちください」
 ナディアの申し出に任せることにした。彼がいったん去り、ヤシュムも部下に呼ばれて場を離れると、残されたアルスランは気まずそうに咳ばらいをした。
「あの、申し訳ありません、貴方の不興を買うつもりはなかったのですが……」
 先ほどとは打って変わって、自信のなさそうな、申し訳なさそうな口調にジュリアスはくすっと笑った。
「光希が承知しているのなら、私が咎めるわけにもいかないでしょう。彼は栄誉に感じているのでしょうし……判りました。必ず優勝してくださいよ」
「はっ」
 畏まって敬礼するアルスランを、遠くからヤシュムが大声で呼びつけた。
 入れ違いで戻ってきたナディアは、ほっとした顔で歩いていく同僚を不思議そうな目で見てから、組み立て式の椅子を広げた。
「どうぞ、ここにお座りください」
「ありがとう」
 ジュリアスが腰をおろすと、ナディアは水筒を開けて亜麻布を湯で濡らし、正面に屈みこんだ。血の跳ねた顔を、慎重な手つきで拭き始める。
「助かります」
「いいえ、お気になさらず」
「アーヒムは?」
「邸に残って片づけをしています。何部屋か焼けてしまいましたが、ハーランとジャプトアに関する重要な証拠を見つけましたよ」
 ナディアはいったん身体を起こすと、部下を呼びつけて書類を持ってこさせた。受け取ったジュリアスは、ざっと目を走らせてから顔をあげた。
重畳ちょうじょう。よく見つけてくれました」
「アーヒムのおかげです。彼が現場の指揮を執ってくれたので、とても動きやすかったですよ」
「二人のおかげで、私もジャプトアに追いつくことができました。ありがとうございました」
「いえ、作戦がうまくいって良かったです……それにしても、髪にまで血が沁みこんでいますね」
 困ったようにナディアがいうと、ジュリアスは血に汚れた黄金色の髪を一つ振った。
「可能な範囲で構いませんよ。帰ったら湯浴みしますから」
「そうしてください。もう少しだけ拭いてみます」
 髪を拭かれながら、そういえば、とジュリアスは思い出したようにいった。
「口にはしませんけれど、光希が婚約解消の件を心配していましたよ」
 髪を拭く手が一瞬止まる。ナディアの顔に、かすかな憂いが浮かんだ。
「……殿下には感謝しております。彼女が塞ぎこんでいると知っていても、私にはどうすることもできなかったのですが、殿下のおかげで、久しぶりに笑顔を見ることができました」
「あの二人は、不思議と気が合うようですから」
「本当ですね」
「心配しなくても、アンジェリカ姫は良い縁談に恵まれますよ。貴方も後悔のないように、心に決めたことを思う通りにすることです」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「……もし、すぐにでも神殿に仕えたいのなら」
「違います」
 ナディアはジュリアスの言葉を遮った。目を伏せて無礼を詫び、逡巡してから口を開く。
「……いずれは、楽師としてイブリフ様に師事する道を考えていますが、まだ先の話です。その日がくるまで、貴方にお仕えさせてください」
 表情にこそださなかったが、ジュリアスは感謝の念と安堵を覚えていた。
「本音をいえば、そうしてもらった方が、私も助かります」
「良かった」
 どちらからともなく、自然と笑みを浮かべたところで、ヤシュムとアルスランが近づいてきた。
「総大将~……っと、何で見つめあっているんだ?」
 指摘されて、お互いに微妙な顔をして離れた。
「あとにしましょうか?」
 にやにやしているヤシュムを、ジュリアスは呆れたような目で見つめた。
「今にしてください」
「御意。いつでも撤収できますよ」
「ありがとう。撤収しましょう。今夜はよく働いてくれました」
 ジュリアスが立ち上がると、ヤシュムは背筋を伸ばし、いきに敬礼してみせた。周囲の将兵も道を譲って敬礼で応える。
 四人の近衛がおさえる黒い一角馬の鞍にジュリアスはひらりとまたがると、全軍から雄たけびがあがった。期待の籠った無数の眼差しを受け止め、口を開く。
「皆のおかげで、財団の大幹部、ジャプトア・イヴォーを討つことができました。今夜は本当によく働いてくれました」
 労いの言葉に、雷鳴のような雄叫びが全軍から湧き起こった。隊伍たいごを為す将兵達は黒牙を天に翳し、自分達の総大将を大声で褒め讃える。
 鳩羽色はとばねいろに染まる夜明け前の空に、双竜と剣を意匠された軍旗が雄々しく翻った。

 クロッカス邸の工房では、たがねの音が響いていた。
 空が白み始めても、光希は眠らずに起きていた。いつでも出かけられるように、軍服を着用している。
 ナフィーサは心を尽くして世話をしてくれたが、横になって目を瞑っていても、ジュリアスのことが気懸かりで眠れず、鏨をとることにした次第である。
 燭台で灯る金と青の焔が、まろやかな影を作業机に落としている。光希は、四角い銀の額縁に凝った装飾を施しているところで、先ほどから、気を紛らわせるために無心で鏨を打っていた。
 静寂の中、廊下を歩く控えめな足音が聞こえてきた。
 連兵隊の帰還の知らせだろうか――逸る心を抑えきれず、ノックを待たずに扉を開けると、手燭を手にしたナフィーサは目を丸くした。
「起きていらしたんですか?」
「還ってきた?」
 ナフィーサは笑顔で頷いた。
「たった今、帰還の烽火を確認いたしました。間もなくお戻りになると思いますよ」
「迎えにいく!」
 間髪入れずに答える光希の全身を見て、ナフィーサは笑顔で頷いた。
「はい。そうおっしゃると思って、馬車の準備が整っております」
「ありがとう!」
 光希は救急道具の詰まった麻袋を背負うと、小走りに邸を飛び出した。
 空の星々は依然として蒼白く瞬いているが、細長いだいだいの筋が地平線に伸びており、それを背にして黒塗りの馬車が留まっていた。
「起きていたの? ルスタム」
 御者台の青年を見て、光希は目を丸くした。
「殿下こそ」
 ルスタムはほほえむと、梯子を用意し、階段を上る光希に礼儀正しく手を貸した。
「ありがとう。すみません、こんな時間に」
「いいえ、すぐに着きますよ」
「お願いします」
 楼門に向かう途中、薄闇に立ち昇る白い烽火が見えた。討伐に向かった騎兵連隊の帰還を知らせる合図だが、光希には気休めにしかならなかった。
(ジュリ、大丈夫だったかな……)
 彼の無事な姿を実際に見るまでは、安心することはできない。
 空は刻一刻と明るくなり、曙光は星を霞ませていく。地平線が発光し、陽が姿を見せると葦の葉の露が金色に燃え始めた。
 ルスタムは門の傍で馬車をとめた。窓を開けると、心地よい風が吹き、無数の喇叭らっぱからあがる喨々りょうりょうたる響きを運んできた。
 やがて、馬の歩調をあわせた足音が聞こえてきた。
 朝陽を背に、矛や馬具のくろがねを煌かせ、長い隊列が近づいてくる。馬蹄や軍靴の留め具に朝露が跳ねて、きらきらと輝いて見えた。
 楼門をくぐり抜ける彼等を、歩哨ほしょうが隊帽を振って迎える中、光希は窓から身を乗り出して、先鋒隊の中にジュリアスの姿を探した。彼はすぐに見つかった。篝火に照らされて、豪奢な金髪が煌いている。
「ジュリ!」
 名前を呼ぶと、部下と話しこんでいたジュリアスは、ぱっと振り向いた。駈けてくる様子を見て、光希も馬車をおりると、彼の傍へ走り寄った。
「ジュリ! 怪我はない!?」
 素早くジュリアスの全身に視線を走らせる。なぜか上着は着ていない。黒い肌着で判り辛いが、縁取りされた銀糸の刺繍に、ところどころ血が滲んでいた。
「平気ですよ」
 穏やかな声でジュリアスはいうが、血の匂い、血の色に、光希は軽く恐慌状態に陥った。石化したように動けなくなる。ジュリアスは光希の顔を両手で包みこむと、優しく上向かせた。
「私は大丈夫です」
 大丈夫。ジュリアスは生きている――頬を包みこむ手の上に、震える手を重ねて、光希は顔を歪ませた。
 あらゆる感情が一遍に押し寄せてきた。
 安堵。恐怖。不安……気が遠くなるほどの大きな、大きな安堵。脅威は去ったのだと判ったら、緊張の糸が緩んで、身体中の力が抜けていった。
「ッ、良かった……」
 黒い瞳に、きらきらとした涙が盛りあがり、雫となって零れ落ちた。
 堰を切ったように、涙は溢れてくる。光希は焦って掌で乱暴に涙をぬぐおうとし、その手をジュリアスに掴まれた。
「泣かないで」
 泉のように溢れてくる涙を指でぬぐいながら、ジュリアスは、繊細な喜びと大きな安堵に全身を捉われていた。何度も、何度も抱擁を繰り返し、その間もずっと、光希は言葉にならない言葉を呟いていた。
 やがて感情の波が凪いでいき、周りの注目を集めていることに気がついた光希は、恥ずかしげに身を引いた。照れ隠しにごしごしと涙を拭っている。
「う、ごめん……」
「落ち着きましたか?」
「うん……」
 ジュリアスは思い遣りの籠った目で光希の様子をうかがい、優しく肩を抱き寄せ、ゆっくり歩きだした。ほほえましげな顔で見送る周囲に、優雅に労いの言葉をかけてから馬車に乗りこむ。
 扉を閉めて二人きりになると、光希は肩から力を抜いて、背もたれに沈みこんだ。間もなく静かな振動が後部座席に伝わり、ゆっくり窓の外の視界が流れ始めた。
 空は刻一刻と明るくなり、曙光は星を霞ませていく。
 夜の霧は、既に朝靄へと変わりつつある。薄れゆく星明りの静寂しじまの中で、光希は再び泣いていた。息を潜めていた恐怖と緊張、安堵がぶり返してしまったのだ。
 涼風の奏でる葉擦れの音、梟の啼く音楽的な快い響きにまじって、彼のすすり泣く声は、ジュリアスの胸に暖かく響いた。
「……そんなに泣いたら、目が腫れてしまいますよ」
 髪に口づけを受けて、光希はジュリアスにもたれるようにして顔をあげた。涙に濡れた頬を、そっと首筋に押し当てる。
 肌に触れる熱い吐息がジュリアスを刺激したが、それ以上に、暖かな気持ち、保護欲、愛しさを感じていた。
「すみません。心配かけましたね」
「本当だよ……なんで、怪我してるのに、い、いくんだよ……っ」
 黒い睫毛の上で、涙が宝石のように光っている。
「貴方がいてくれるから、私は誰が相手でも、どんなところへでも向かっていけるんです」
「そんなこといって……僕がどんな気持ちでいたと思う? 誰がどう見ても大怪我をしているのに、どうしていくの、馬鹿っ!」
「すみません、光希――」
「あのね、ジュリは僕の心配ばかりするけど、ジュリの方こそ、もっと自分を大切にして! 無茶しないで! でないと……けほっ」
「シィ……」
 興奮して咳きこむ光希の背中を、ジュリアスは優しく叩いた。涙で濡れた頬に貼りついた黒髪を、後ろに払ってやる。宥めすかそうとしている……涙声で文句をいう腕の中の存在が、これ以上はないというほど、堪らなく愛しかった。