アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 14 -

 慎ましい領民は、そろそろ寝仕度をする時刻に差しかかろうとしているが、ポルカ・ラセに眠る気配は微塵も感じられない。
 休憩室をでたあと、光希と共に大遊戯室に戻ってきたジュリアスは、欄干から遊戯場の盛況ぶりを眺めて感心していた。
 ゲームは全て滞りなく進行しており、どの遊戯卓も景気よく盛り上がっている。進行役の元締めが辣腕らつわんを奮い、うまく懸け金を釣り上げている様子が、上から眺めているとよく判る。
 空いている遊戯卓は殆どない。高級娼婦達も教育がいき届いており、客を王者のような気分にさせているようだ。
 完成された空間といっていい。
 これほどの規模の遊戯場を切り盛りするのは、生半可なことではない。賭博に社交、統率と事業投資の才覚にも恵まれていなければ、到底なしえないだろう。
 ヘイブン・ジョーカーの才能は疑いようもないが、懸念すべき点は幾つかある。
 先ず、清廉潔白な経歴の持ち主ではない。
 彼は悪名高い盗賊団、クシャラナムン財団に在籍していた過去がある。十七歳で一味から脱走し、ポルカ・ラセの支配人に昇りつめた今もその影は消えていない。莫大な富を生む競竜杯で、財団の繋がりを匂わせているのだ。
 ゆったりと大遊戯室を歩いていたヘイヴンは、ジュリアスと光希に気がついて顔を綻ばせた。
「殿下、もう具合はよろしいのですか?」
「はい。休ませていただいて、ありがとうございました」
 ヘイヴンは人好きのする笑みを光希に向けたあと、ジュリアスを見て意味ありげにほほえんだ。
 その欲望のいりまじった瞳を見て、ジュリアスは冷たい表情になった。
(……競竜杯の要人ではあるが、関わりたくない男だ。光希に近づくようなら容赦はしない)
 ジュリアスがヘイヴンを冷酷に吟味しているように、彼もまたジュリアスのことを観察していた。
 財団にいた頃、宝石持ちは美しいばかりの虚ろな れものだと聞いたことがあった。
 事実、若き砂漠の英雄は、ため息が出そうなほど美しい容姿をしているが、人を寄せつけない雰囲気がある。彼が満面の笑みをうかべているところなど、殆どの人間は想像もできないだろう。
 ところが、隣に花嫁ロザインがいるとどうだ?
 凍りついた表情を溶かし、礼儀正しく魅力的な笑みを浮かべるではないか。
 薄闇の中でも光彩を放つ、まじりけのない蒼い瞳。輝きにあふれ、人を魅了する魔性を秘めている。
 誰もが彼に夢中にっている。彼の傍へ近寄りたくてたまらない、そんな顔をしている。
 当の本人は、押し寄せる秋波に目もくれず、ただ一人の花嫁を護るように寄り添っている。愛情深い獅子のように。
 無敵で難攻不落の英雄。敵に回せば容赦なく粛清されるが、彼の信用を得ることができれば、商売の先行きはぐっと明るくなるだろう。
(……個人的にも、手に入れたくなる男だな)
 ポルカ・ラセの七代目支配人、ヘイヴンは色事師としても有名だった。財団から自立して間もない頃は、高貴な男や女の閨に侍り、性愛の化身として奉仕していた。そうして人脈を築いてきたのだ。
 彼は、これまでにかぞえ切れないほどの美貌を目にしてきたが、ジュリアスは群を抜いていると驚きを隠せずにいた。
(彼を褥に呼ぶことができたら、どんなだろう?)
 上品な笑みの下で、ヘイヴンは悪い想像を働かせていた。
 恐らく、ジュリアスを欲しいと思う人間は、次にこう考えるはず――彼が心を捧げる花嫁から篭絡せよ。
 まさしくぴったりな計画がある。
 愉快な気持ちで、ヘイヴンはとある男を呼んでくるよう部下に指示した。
 不思議そうにしている光希を振り返り、笑みを浮かべる。
「実は、今日ここにきている客の中に、紹介したい建築家が一人います」
 警戒を滲ませるジュリアスに気づかないふりをして、ヘイヴンは光希に笑いかけた。
「アーナトラ氏をご存知ですか?」
 名前を聞いて、光希は瞳を丸くした。もちろん知っている。アッサラームで評判の庭園建築家、光希とジュリアスの私邸の園を手掛けた張本人である。
「え、アーナトラさんに会えるのですか?」
「紹介させていただいても、よろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです!」
 顔に満面の喜色を浮かべる光希を見て、ヘイヴンも自然な笑みを浮かべた。アーナトラは機知に富む穏やかな男だ。恐らく、二人は気が合うだろう。
 果たして、ヘイヴンの予感は的中する。
 やってきたアーナトラは、光希とジュリアスを見て瞳を輝かせた。
「お会いできて誠に光栄です」
 崇敬の眼差しで見つめられて、光希は照れ笑いを浮かべた。
「それは僕の台詞です。貴方が僕達のクロッカス邸を建ててくれたのですね」
 アーナトラは感激を顕すように、胸に手を当てた。光希の手を取ると、恭しく額に押し当てる。
「我が生涯の喜びです」
 頬を赤らめて光希は頷いている。二人の様子を見て、ヘイヴンは満足そうに切り出した。
「実は、競竜杯の前に玄関広間を改装しようと考えておりまして、設計をアーナトラ氏にお願いしているのです」
「そうなんですか! それは、今から完成が楽しみですね」
「そこで、一つお願いがございます。殿下さえ良ければ、広間に飾る遊戯卓の装飾をしていただけないでしょうか?」
「えっ、僕ですか?」
 頓狂な声を発する光希を見て、ヘイヴンは朗らかに笑った。
「クロガネ隊でのご活躍は、以前からうかがっております。競竜杯を記念する遊戯卓を、殿下に手掛けていただけたら、この上ない幸運なのですが」
 彼の言葉が全身に浸透すると、光希の腕に鳥肌が走った。心臓は煩いほど鳴っている。
 アーナトラの手掛ける玄関広間に置く遊戯卓の装飾……なん魅力的な仕事なのだろう。ぜひともやってみたい!
 期待をこめてジュリアスを仰ぐと、彼は警戒の瞳でヘイヴンを見ていた。
「随分と急ですね。光希には、クロガネ隊の勤めもあるのですから、突然そのようなことをいわれても困ります」
 人目のある場所で、注目を浴びるような言動をするヘイヴンの軽率さに、ジュリアスは腹を立てていた。
「無理にとは申しません。この場で結論を出す前に、先ずはどのような装飾にされるか、想像だけでもしていただけませんか?」
「依頼を受けるとはいっていませんよ」
 ジュリアスが水を差すと、ヘイヴンは笑みで応えた。
「判っております。もし受注するとしたら……想像の範疇で構いません」
「判りました! 考えてみます」
 光希の返事は明るい。頬は紅潮し、期待に瞳を輝かせている。ヘイヴンの申し入れを、名誉に感じているのだろう。
 だが、ヘイヴンには利己的な思惑がある。ジュリアスは冷静に釘を刺しておく必要があった。
「私には、光希の独創的な発想を止めることはできませんが、彼の負担になるような依頼は止められるのだということを、よく心に留めておいてください」
「かしこまりました。しかとこの胸に刻んでおきましょう」
 ヘイヴンは胸に手を当てて、恭しくお辞儀をした。
 彼は、この状況が愉快でたまらなかった。
 誰もがジュリアスの虜になる。ヘイヴンも彼が欲しい。ジュリアスは花嫁にしか興味がない。花嫁は現在アーナトラとポルカ・ラセに夢中で、この絶妙な空気に気づいていない。
 なんて愉しい夜なのだろう。
 これほどの上客を迎えられたこともさながら、好奇心を掻き立てられる二人組に、心は浮き立つばかりだ。