アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 5 -

 夜が明けても、ジュリアスは屋敷に帰ってこなかった。
 いよいよ弱音を吐こうか迷っていたけれど、一晩が明けて、今日は一人で乗り切ろうと光希は心に決めた。
 工房へ向かうと、久しぶりにアルシャッドがいた。昨日、同じ加工班隊員に伝言を頼んでおいたので、忙しい中、朝礼にきてくれたのだ。

「殿下、昨日はわざわざ探してくれたようで、申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ、忙しい中すみません。実は、たまっている受注を消化できなくて……」

 事情を説明するうちに、顔は次第に下を向き、声はぼそぼそと小声になった。
 アルシャッドは怒らなかった。いつも通り穏やかな口調で、光希に代わって的確に納期調整をしてくれる。
 依頼主への納期交渉まで代わってくれようとするので、それだけは自分ですると光希がいうと、

「俺は殿下の専属指導隊員ですから。こういう時、矢面に立つのも仕事ですよ。殿下の一生懸命な姿勢は、皆知っています。遠慮せずに、もっと頼ってくれていいんですよ」

 不覚にも視界が潤みそうになり、慌てて俯き唇を引き結んだ。
 そろりと伸ばされた手が視界の端に映り、顔をあげると、アルシャッドは困ったようにほほえんだ。

「お慰めしたら、叱られますかねぇ」

 頭を撫でようかどうか、迷ったらしい。共同大浴場の鉄拳制裁があって以来、光希に触れた者には天誅が下ると思われているようだ。
 中途半端に伸ばされた手と、困り顔を見て、光希も口元に笑みらしきものを浮かべた。

「先輩なら平気です」

 光希がいうと、アルシャッドは控えめに黒髪を撫でた。その触れ方が本当に慎重で、光希はまた笑った。
 アルシャッドは光希から完全に作業を取り上げたりはせず、任せられると判断したところは手伝わせくれた。簡単な作業が多いとはいえ、手持無沙汰にならず救われる思いがした。
 沈んだ心は幾らか晴れはしたものの、アルシャッドが去り、作業台で黙々とくろがねを触りだすと、心は再び落ち込んだ。
 与えらえた仕事を全うできなかった。アルシャッドに泣きついてしまった。鉄も扱えない。何も解決なんてしていない。自分が情けない……
 凹んでも仕方ない――気力を振り絞って作業を開始したものの、精神的に弱っているせいか、気分はどんどん悪化した。
 次第に手がぶるぶると大袈裟なくらい震え出して、真鍮ブラシを持つこともできなくなった。
 これ以上ここにいても、できることがない……
 心配そうにしているローゼンアージュや、隊員達の顔を見て、光希はルスタムと共に早退することにした。

「すぐにシャイターンに伝えて参ります」

 駆け出しそうなルスタムの腕を、光希は咄嗟に掴んだ。

「いいよ、ジュリも大変だろうから……」

花嫁ロザインの一大事です。知らされない方が苦痛でしょう」

 ルスタムはローゼンアージュを伝令にやり、人払いした休憩室に光希を寝かせた。
 早退して良かった。横になっていても気持ち悪くて、目が回る。
 朦朧としていると、石畳の廊下を駆ける軍靴ぐんかの音が聞こえてきた。

「光希!」

 うっすら開いた視界に、心配げに見下ろすジュリアスが映る。
 その後ろにはローゼンアージュやルスタムがいて、馬車の用意が整いました、寝台に乗せましょう、とそれぞれ声をかけるが、ジュリアスは光希しか見ていなかった。

「光希……」

 きてくれた。呼び出すのは悪いと思っていたのに、いざ顔を見ると心が温まった。
 ジュリアスに付き添われて、救助用の荷台で馬車まで運ばれた。
 混濁する意識の向こうで、幾つもの心配そうな声を聞いた気がしたが、応える余裕はなかった。ただ、アルシャッドの声には思わず反応した。
 引き継ぎをしたばかりなのに、更に負担をかけてしまう。馬車の中で身体を起こそうとすると、ジュリアスに肩を押さえられた。

「そのままで……」

「先輩に……謝っておいて。ごめん……ジュリ、忙しいのに……」

 気力を振り絞って喋ると、ジュリアスはとても辛そうな顔をした。唇を戦慄わななかせて、噛みしめるように、光希……と囁く。
 彼の方が酷い顔をしている。平気だから……そういいたいのに、声になったかどうか……

 +

 お屋敷に戻った後、その日のうちに軍の医師が診にきてくれた。
 診察の結果、過労、と診断された。
 健康には自信があったのに、気持ち悪くて殆ど食べれなくなってしまい、それから数日間は栄養補給と滋養強壮に利く、抗生物質飲料を定期的に飲まされ、死んだように眠り続けた。
 忙しいはずのジュリアスは、気付けば傍にいて慰めてくれる。
 前にもこんなことがあった気がする。あれはそう、初めて刀身彫刻を彫った時のことだ。高熱を出して寝込んでしまった。でもあの時は、達成感に満ちていたのに……
 身体が弱っているせいか、精神的にも弱ってしまい、訳の判らない悲しみに襲われては涙が溢れた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

 何に対して謝っているのかすら、よく判らない。でもジュリアスは、子供をあやすように添い寝をして、光希が眠りに落ちるまで一人にしなかった。