アッサラーム夜想曲
第2部:シャイターンの花嫁 - 34 -
明け方、空が白み始めた頃。
扉の開く小さな音に、光希は弾かれたように振り向いた。出かける前と変わらない、ジュリアスの無事な姿を見て安堵する。
ふっくらした唇から疲れたようにため息を零したが、表情は穏やかだ。清かな星明りに照らされた、輪郭のはっきりした頬と顎はこの世のものとは思えぬほど美しい。
「お帰り、ジュリ」
「起きていたの?」
小さく目を瞠ったジュリアスは、コーキの隣に腰を下ろすと、肩を抱き寄せた。
「身体が冷えてる。まさか、ずっとここに?」
「平気です。ジュリは平気?」
「はい、全て終わりましたよ」
「……聞いてもいい?」
「詳細は教えられません」
「……」
戸惑った顔をする光希を見て、ジュリアスは続けた。
「知れば、コーキの負担が増すだけです」
「僕より、ジュリが心配です。大変だった? 話して」
「大したことはありませんよ」
「じゃぁ、話して。隠し事はなし!」
真っ直ぐ瞳を見つめて訴えると、ジュリアスは逡巡してから、諦めたように口を開いた。
「……内密にしてくださいよ」
「約束します」
「娘を密かに連れ出し、王都を離れる隊商 に預けました。そろそろ砂漠に向けて出発する頃でしょう。相手は貴族ではありませんが、王都でも目利きの豪商として名の知れた傑物です。前々から宮女を欲しがっていましたし、ちょうど良いでしょう」
「え、そうなの?」
ここを出て、見ず知らずの相手に、嫁ぐのだろうか。
「娘にはドゥルジャーンの名を捨ててもらうことになりますが、縁談を受け入れれば、この先公宮と変わらない贅沢が約束されていますからね。喜んで受け入れましたよ」
「そう……こっそり逃がしたってこと?」
「いや、割と堂々と逃がしましたよ。アースレイヤと西妃 にも話は通してあります。西妃には予定通り、ブランシェット姫とパールメラ姫の影武者を連れて蒸風呂にいってもらいます。いきは三人、帰りは二人。あたかも蒸風呂で何かが起きて、パールメラ姫は失踪……という予定通りの状況を作っていただきます」
「……それでは、リビライラ様が疑われてしまわない?」
怪訝そうに問いかけると、ジュリアスは涼しげな顔で首肯した。
「身から出た錆を利用させてもらいます。周囲は勝手に誤解してくれるでしょう。コーキの耳にも、宮女失踪の噂話が届くかもしれませんが、適当に話を合わせておいてください。くれぐれも、この話は内密に」
「リビライラ様は……本当にパールメラ姫を、殺すつもりだったの?」
「公宮を追い出せれば、何でも良かったのでしょう。私が動いたことで、手間が省けた、と喜んでいましたよ」
俄かには信じ難い。まさか、本当に、あの優しいリビライラが……
“……その隣は、パールメラですわ。ドゥルジャーンに養子縁組をして、三年前に公宮に上がりましたの。跳ねっかえりで、私も手を焼いていますのよ。困った姫君ですわ”
四阿 で、彼女はパールメラをそう紹介した。困ったといいながら少しも困った風では無くて、楽しそうにほほえんでいたのに。あの笑顔は、嘘だったというのだろうか。
深刻そうな表情で黙す光希を見て、ジュリアスは小さく溜息をついた。
「ほら、知らない方が良かったでしょう?」
虚を突かれて、光希は慌てて顔を上げた。
「違う。それは違います。僕は、嫌なことをジュリに押しつけてしまった。もっと怒ったり、不満をいったり、僕に……話して」
眩しいものを見るように、ジュリアスは青い瞳を細めた。彼の身体から、優しい青い燐光が仄かに漂う。
「僕は……今でも、リビライラ様がパールメラ姫を殺そうとしたなんて、嘘だって思ってしまう。初めて会った時、優しくて、女神みたいな人だと思ったんだ……ジュリはどう思う?」
「公宮で立場を築く為には、優しいだけではいられません。寵を競り合う女達を、愚かで憐れだと思っていましたが、今は少しだけ判ります。西妃も、アースレイヤの隣に在る為に、そうせざるをえなかったのでしょう」
その言葉に、感傷めいた憐情が湧いた。結局、皆で一人を共有するなんて、無理な話なのだ。何千人も美女を囲っても、お互い不幸になるだけだ。
「近く、ブランシェット姫も降嫁が決まりました」
軽い衝撃を受ける光希を、宝石のように青い瞳が見つめている。怖いくらいに澄んでいて、心の機微など、すっかり見透かされてしまいそうだった。
「……そう」
「話していいと、さっきいってくれましたね……コーキは傷つくかもしれないけれど、話したいことがあります」
「うん、判った。話して」
何をいわれるのかと、光希は緊張気味に姿勢を正した。
「ブランシェット姫はアースレイヤを慕う姫の一人です。コーキに近づいたのも、蒸風呂の件も、全てアースレイヤの差し金です。危ないところでしたよ。私が止めなければ、今頃、コーキは蒸風呂で彼女達に襲われていたのですから」
「えぇっ?」
何をいい出すのかと思えば。予想外過ぎて、頓狂 な声が出た。
扉の開く小さな音に、光希は弾かれたように振り向いた。出かける前と変わらない、ジュリアスの無事な姿を見て安堵する。
ふっくらした唇から疲れたようにため息を零したが、表情は穏やかだ。清かな星明りに照らされた、輪郭のはっきりした頬と顎はこの世のものとは思えぬほど美しい。
「お帰り、ジュリ」
「起きていたの?」
小さく目を瞠ったジュリアスは、コーキの隣に腰を下ろすと、肩を抱き寄せた。
「身体が冷えてる。まさか、ずっとここに?」
「平気です。ジュリは平気?」
「はい、全て終わりましたよ」
「……聞いてもいい?」
「詳細は教えられません」
「……」
戸惑った顔をする光希を見て、ジュリアスは続けた。
「知れば、コーキの負担が増すだけです」
「僕より、ジュリが心配です。大変だった? 話して」
「大したことはありませんよ」
「じゃぁ、話して。隠し事はなし!」
真っ直ぐ瞳を見つめて訴えると、ジュリアスは逡巡してから、諦めたように口を開いた。
「……内密にしてくださいよ」
「約束します」
「娘を密かに連れ出し、王都を離れる
「え、そうなの?」
ここを出て、見ず知らずの相手に、嫁ぐのだろうか。
「娘にはドゥルジャーンの名を捨ててもらうことになりますが、縁談を受け入れれば、この先公宮と変わらない贅沢が約束されていますからね。喜んで受け入れましたよ」
「そう……こっそり逃がしたってこと?」
「いや、割と堂々と逃がしましたよ。アースレイヤと
「……それでは、リビライラ様が疑われてしまわない?」
怪訝そうに問いかけると、ジュリアスは涼しげな顔で首肯した。
「身から出た錆を利用させてもらいます。周囲は勝手に誤解してくれるでしょう。コーキの耳にも、宮女失踪の噂話が届くかもしれませんが、適当に話を合わせておいてください。くれぐれも、この話は内密に」
「リビライラ様は……本当にパールメラ姫を、殺すつもりだったの?」
「公宮を追い出せれば、何でも良かったのでしょう。私が動いたことで、手間が省けた、と喜んでいましたよ」
俄かには信じ難い。まさか、本当に、あの優しいリビライラが……
“……その隣は、パールメラですわ。ドゥルジャーンに養子縁組をして、三年前に公宮に上がりましたの。跳ねっかえりで、私も手を焼いていますのよ。困った姫君ですわ”
深刻そうな表情で黙す光希を見て、ジュリアスは小さく溜息をついた。
「ほら、知らない方が良かったでしょう?」
虚を突かれて、光希は慌てて顔を上げた。
「違う。それは違います。僕は、嫌なことをジュリに押しつけてしまった。もっと怒ったり、不満をいったり、僕に……話して」
眩しいものを見るように、ジュリアスは青い瞳を細めた。彼の身体から、優しい青い燐光が仄かに漂う。
「僕は……今でも、リビライラ様がパールメラ姫を殺そうとしたなんて、嘘だって思ってしまう。初めて会った時、優しくて、女神みたいな人だと思ったんだ……ジュリはどう思う?」
「公宮で立場を築く為には、優しいだけではいられません。寵を競り合う女達を、愚かで憐れだと思っていましたが、今は少しだけ判ります。西妃も、アースレイヤの隣に在る為に、そうせざるをえなかったのでしょう」
その言葉に、感傷めいた憐情が湧いた。結局、皆で一人を共有するなんて、無理な話なのだ。何千人も美女を囲っても、お互い不幸になるだけだ。
「近く、ブランシェット姫も降嫁が決まりました」
軽い衝撃を受ける光希を、宝石のように青い瞳が見つめている。怖いくらいに澄んでいて、心の機微など、すっかり見透かされてしまいそうだった。
「……そう」
「話していいと、さっきいってくれましたね……コーキは傷つくかもしれないけれど、話したいことがあります」
「うん、判った。話して」
何をいわれるのかと、光希は緊張気味に姿勢を正した。
「ブランシェット姫はアースレイヤを慕う姫の一人です。コーキに近づいたのも、蒸風呂の件も、全てアースレイヤの差し金です。危ないところでしたよ。私が止めなければ、今頃、コーキは蒸風呂で彼女達に襲われていたのですから」
「えぇっ?」
何をいい出すのかと思えば。予想外過ぎて、